2012年4月11日水曜日

知の共創―研究者プロファイル―:研究力:教育×WASEDA ONLINE


▼知の共創―研究者プロファイル―

勝方=稲福 恵子 早稲田大学国際教養学術院教授 早稲田大学琉球・沖縄研究所所長 略歴はこちらから

「おきなわ女性学」の確立
―故郷・沖縄と向き合って―

勝方=稲福 恵子
早稲田大学国際教養学術院教授
早稲田大学琉球・沖縄研究所所長

研究のルーツはアメリカ文学

 今でこそ、ジェンダー論や沖縄学が専門と言っていますが、学生時代からのもともとの専門は、アメリカ文学でした。ネイティブアメリカンや黒人の作家によるマイノリティの文学に関心があって、そこから徐々に女性文学の研究へ入っていきました。これがじつに奥の深い世界で、優れた女性作家が次から次へと出てくる――どんどんのめり込んでいきましたね。『アメリカ女性作家小事典』という、300人の女性作家を紹介する事典を編纂したほどです。

 さらに、「これこそ自分のライフワークだ!」と思ったテーマが、1920年代のアメリカの文学シーンを牽引した、女性編集者たちの活躍です。アメリカの1920年代というのは、モダニズムの文学が花開いた時代ですが、その背景には「リトル・マガジン」といわれる文芸雑誌群の存在があり、その多くが辣腕の女性編集者たちによって采配されていたのです。

白人の天使に対抗するイメージとして黒人たちが考えた黒人の天使像「ブラック・エンジェル」

 例えば、『リトル・レビュー』という有名な前衛文芸誌を創刊したのは、マーガレット・アンダーソンという、まだ20代の若き女性です。ジェイムズ・ジョイスの「ユリシーズ」を自分の雑誌で紹介したり、掲載予定だった作品が猥褻文書規制の検閲で掲載禁止を受けたことに反発して、白紙のページを残したまま雑誌を出したりと、当時の文芸シーンでも刺激的な人物の1人でした。

 この時期は、ハーレム・ルネッサンスといわれる黒人解放の時代でもあり、黒人女性の活躍もみられます。経済的に豊かな黒人が徐々に出てきた中に、マダムC.J.ウォーカーという美容師がいました。彼女は、髪の毛をストレートにする薬を発明して、それが黒人女性の間でブームになって商売が大成功します。儲けたお金で、文化交流のサロンを開いて、黒人の作家や芸術家たちのパトロンになったんですね。


ベイモールでポスターを購入する場所

 あちこちで女性が大活躍していた社会現象を発見して、まるで宝の山を見つけたように興奮しました。本当だったら、今、まさにその研究にのめり込んでいるはずなんですが…、残念ながらその夢は成就していません。本学の教員になってから、どうも興味関心が一箇所に留まっていてはいけないように運命づけられたようで(笑)、やっていることが自分でも思いがけない方向へと移り変わってきています。

ジェンダー論、女性学への進出

 1991年に本学の法学部に着任して、一般教養のアメリカ文学や英語の講義を担当していたんですが、93年に学部の3、4年生を対象にした一般教養ゼミを担当できることになった。さて何をやろうかなと考えたときに、アメリカ留学から帰ったばかりの学生に「先生、向こうではジェンダー論(*)という授業があってすごくおもしろい。早稲田でもぜひやってほしい」といわれ、ほかにも興味をもった学生が少なからずいて、みんなに背中を押されるかたちで始めました。
(*ジェンダーは、「社会的・文化的な性のありよう」を意味する)

 「女性学」という名前でゼミを開いて、女性ばかり集まるのかなと思っていたんですが、いざ蓋を開けてみたら、30名ほどのうち、男性と女性がみごとに半数ずつの割合なのでびっくりしましたね。ちょうど90年代に入って、日本でもマスコミが「ジェンダー」という言葉を盛んに使うようになっていたこともあり、学生たちの関心は高かったのです。1997年には、「ジェンダー・スタディーズ」と名称を変えて、全学の学生を対象にしたオープン講座にしたのですが、受講生が400人も集まってしまって、これは大変なことになったぞと思いました(笑)。

 私たちの試みは、本学に女性学やジェンダー論を本格的に取り入れるきっかけになりました。アメリカのジェンダー論の講義で教えている内容を調べてみると、非常に学際性に富んでいて、法とジェンダー、文学とジェンダー、メディアとジェンダー…と、まさに既存の学問分野を横断して成立している領域なんですね。これは本腰を入れてやっていかなければという気運が学内の教員の間で徐々に高まり、2000年には、「ジェンダー研究所」というプロジェクト研究所(*)の発足へと発展していったのです。
(*教員が分野や所属を超えて、特定のテーマ研究に共同で取り組むプロジェクト型研究活動を支援する、早稲田大学独自の制度)


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トラウマだった沖縄と向き合う

 そうこうするうちに、こんどは沖縄学へと入っていくことになりました。じつは本学と沖縄のつながりというのは、歴史的にとても強いものがあります。1954〜66年まで3期12年にわたって本学総長を務めた、大濱信泉(法学者・1976年没)という人物がいます。八重山諸島の石垣島の出身で、沖縄の戦後復興や本土返還にも重要な役割を果たした人物として知られます。

 ちょうどジェンダーに取り組み始めた頃から、学内で「大濱信泉の早稲田に、沖縄学の研究所がないのはおかしい」「沖縄出身のあなたがやらないでだれがやる」といった声が挙がるようになってきて、最初はあまり乗り気じゃなかったんですが、次第におだてられてというか、乗せられていったというか…(笑)。いよいよ観念して、2005年頃から研究所の設立準備にかかわるようになり、2006年に「琉球・沖縄研究所」を設立し、私が所長に就任しました。

『おきなわ女性学事始』(新宿書房、2006年)

 正直にいうと自分の中では、生まれ育った沖縄にもう一度向き合うことに、相当な葛藤がありました。上京したときには、「ああ、これでもう沖縄の重圧とはおさらばだ」と、心からほっとしたものです。自分の家も、特攻隊の生き残りだった父と、やはり沖縄戦で大変な苦労をした母の、それぞれに違う物語をもった夫婦のあいだの葛藤があり、あるいは土着の思想に育てられた祖母と、近代の教育を受けた母の間での葛藤があり、家族の中にさまざまなトラウマがうずまいていて、沖縄が抱えている歴史的な闇のようなものから、ただ逃れたかった。

 けれども、やはり歳をとってきたせいでしょうか(笑)、沖縄ととことん付き合ってみようかと思えるようになりました。沖縄を捨ててきたはずなのに、いつまでも呪縛されている自分がいることに気づいて、「そろそろけりを付けて、楽になりたい」と思ったのでしょう。女性学やジェンダー論に引き寄せられたのも、ある意味では、舅・姑からの圧力から自分を解き放つための理論武装だったわけですが、この沖縄への研究シフトも、やはり自分の中にわだかまっている「沖縄」を理論的に解きほぐして楽になりたいという気持ちから出たものです。


ここで、メアリー·ローズノートンのイメージは何ですか?

 そんなわけで、琉球・沖縄研究所の所長になったのですから、これは「沖縄学をやっています」と言えるようになるしかありません。沖縄の女性からの自分史の聞き取り調査に取り組み、沖縄学のエスニシティ(民族性)とジェンダーを結びつけた「おきなわ女性学」という切り口で、自分なりのアプローチを追求してきました。その研究成果を、研究所がオープンした2006年には『おきなわ女性学事始(ことはじめ)』という本にまとめて出版することができました。

国際化する沖縄学ネットワーク

ヴェネツィア市で開催された沖縄学国際学会(2006年)

 沖縄学に携わるようになって驚いたのが、沖縄学の学際性と国際性です。沖縄を研究している学者は世界中にいて、分野も歴史学、言語学、政治学、社会学など、多岐にわたります。

 沖縄というのは不思議なところで、地理的にとても狭い範囲の中に、4つほどの異なる言語が発達しており、それらは方言を超えて外国語といってもいいような、まったく異なる言語体系をもっています。言語学者にとって、「言語とは何か」ということを考えるうえで、沖縄は格好のフィールドとなっています。また、女性だけが聖職として神事を執り行う伝統があるのも、世界的にみてたいへん稀少な場所で、宗教学からも注目されています。

 2006年には、イタリアのヴェネツィア市で沖縄学の国際学会「想像の沖縄・その時空間からの挑戦」が開催され、世界中から50人ほどの学者が集って議論をしました。開催校を引き受けたのがヴェネツィアのカ・フォスカリ大学で沖縄学の講義をしているローザ・カーロリ教授です。彼女がたまたま客員研究員として早稲田に滞在していたとき知り合う機会があり、「イタリアを沖縄学の国際研究拠点にしたい」という思いを聞いてすっかり意気投合し、東京側の事務局を引き受けました。

2008年秋に仕掛けた一連の企画展は、沖縄でも大々的に紹介された。琉球新報の記事には、取材に答える勝方=稲福教授の写真(左)も。


 そんなことから、国際化に本格的にかかわるようになったのですが、ここにきて、沖縄学の国際ネットワーク形成がめまぐるしく進展しています。2008年にはハワイ大学の沖縄研究センターが開所し、2009年4月には、琉球大学に国際沖縄研究所が開所予定で、相互に連携していくことを表明しています。私たちも国際拠点の1つとして、積極的にかかわっていきたいと考えています。

この秋は、本学が中心となって、沖縄をテーマにした一連の企画展を実施しています。東京国立近代美術館が、沖縄の近代の美術や写真などの作品を紹介する画期的な沖縄展「沖縄・プリズム 1872−2008」(10月31日〜12月21日)を開催しますが、そのフィナーレを飾る企画として、12月16日に沖縄の劇団創造による『人類館』の大隈講堂での上演を、同美術館との共催で進めています。都内各所での「沖縄ドキュメンタリー映画祭」やシンポジウムなど、およそ3ヵ月にわたり大小さまざまなイベントを仕掛けています。後にも先にもこれだけの催しはないだろうというくらい大々的なもので、「東京を沖縄色に染める」というキャッチフレーズを掲げて、私も東京中を駆け回っています。

勝方=稲福 恵子(かつかた=いなふく・けいこ)
早稲田大学国際教養学術院教授 早稲田大学琉球・沖縄研究所所長

高校生のときに沖縄を離れ、東京の高校へ転校する。1971年、早稲田大学第一文学部卒業、1983年、文学研究科博士後期課程満期退学。日本大学芸術学部講師を経て、1991年、早稲田大学法学部専任講師、同・助教授、教授を経て、2004年から現職。2006年から琉球・沖縄研究所所長を併任。現在の関心は、日本学や沖縄学をジェンダーとエスニシティの観点から複眼的に研究する方法論を確立すること。主な著書に、『アメリカ文学の女性像』『フェミニスト群像』『ジェンダーとアメリカ文学:人種と歴史の表象』『家族・ジェンダーと法』など。平成14年度、沖縄文化協会賞受賞。

早稲田大学研究推進部 



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