佐藤英輔のライヴ三昧
出てきてすぐに思ったのは、なんとなく太ったかな。イケ面度数も何か落ちていたような。そんな彼はアップライトと5弦のエレクトリック・ベース(フレット付きとなしのを両方弾く)の両刀、なかには最初アップライトで途中からエレクトリックに持ち替える曲もあった。何かその様にふれて、家には沢山ベースを置いているんだろうなと推測。そんな彼に加えて、トランペット、テナー・サ ックス、ピアノ/電気ピアノ、ドラムが脇を固める。新作に入っていた二人の管奏者をはじめ、主に英国で活動する人たちのよう。編成自体はオーソドックスなカルテットと言うこともできるが、そこはイーストウッドのベース演奏や曲作りの味もあり、ジャズとフュージョンを行き来するような感じが出てくる。ヴォーカリスト(ぼくが見た前回;2006年11月3日は、ジェイミー・カラムの兄ちゃんだった)が今回は同行しないのでポップ度は下がり、ジャズ度は少し上がっていたか。フロントの管奏者もしっかりしていたし。
5人はみんな白いシャツと黒傾向のデニムという格好に統一。そんなに、おしゃれという感じではない。面白かったのは、本編/アンコールともにイーストウッドが先頭で出てきてステージに登ること。主 役は最後に、というパターンの方が多いと思う。それは、偉そうにしない彼らしいか。それとも、何気に張り切り屋さん?
一番年長のリッキーは、さすがちょい疲れ気味に見えた。この日、彼は白いスーツで、シャツと帽子も比較的ベージュっぽいものを身につけている。なんでも、みんな来日時の荷物は最小限らしいが、リッキーだけはいろいろ衣服を持ってきたらしい。なにせよ、やっぱし、皆いい感じで格好をまとめている。ベースのカバリエとロジェはこの日長いスカーフを上手くかぶっていた。そういえば、コンゴの先達であるパパ・ウエンバが来日した際(80年代後期だったっけ?)、お洒落好きなメンバーたち� ��、食事はすべてコンビニ飯などで済ませ、節約したお金でデザイナーズ・ブランドの服を嬉々として買っていた、なんて話を聞いたことがあるが。
今回、少し冷静気味にライヴに接してまず感じたのは、肉声の噛み合いの素晴らしさ。本当に良く出来ている。いい感じのコール&レスポンスに加え、ラップが切り込んだりとか、最良の構成がなされていると思わせられることしきり。そして、皆それぞれに顔や動きだけでなく、声にキャラがしっかりあり、それを上手く用い(リード・ヴォーカルも曲によって変わる)、噛み合わせている。いい加減というか、烏合の衆なようでいて、曲ごとにヴァリエーションを持つ肉声群の絡みはマジ絶の妙。そのうえで、各々が気分に任せるところもあり、スポンテニアスな要素も決して失� ��ないわないし、何より生き生きしている。これは凄い、と改めて思うとともに、この5人だからこそ、とも、しかと思わせられるか。誰かがいなくなったら……とか、余計なことを心配したくなるほどに。ともあれ、彼らはコンゴの伝統を受け身体にたっぷり蓄積させていて、それをきっちり今の自分たちのヴォーカル/ビート表現として、見事に花開かせている。彼らはまず何より、音楽的な才に恵まれている、それは間違いなく言える。
そして、彼らはとにもかくにも、胸を張って、大きく手を広げて、一生懸命。ぼくはジュナナやカボセ側のほうにいたのだが、彼らの心からの熱演の様に胸が張り裂けそうになった。ほんと、去年から山ほどツアーをやっているはずなのに、何ら疲弊も見せず、これこそが勝負の日とばかり� ��振る舞うのには頭が下がる。そこには、見る者を和ませる無邪気さや颯爽さもありココロをつかむ。ああ、人間がやっているという感覚の強さに、接する者はヤラれる。
彼らのショウの演目は全公演、同じもの(全13曲)であったという。だが、この日は2曲のアンコールを終えた後、もう一度出てきて、おそらく世界初お披露目となる新曲をやった。実はリハーサルのときには何度かその曲をやっていたそうだが、まだ完璧ではないという判断で、本編ではやっていなかったらしい。うーぬ、ぼくが先に書いた歌声の重なりの周到さといい、見せ方の確かさといい、楽曲に対する責任の取り方といい、やはりビリリは天然だけのグループではなく、きっちりと才能も見識も計算も努力を持つ、プロフェッショナルな集団であると� �摘できる。ゆえに、ぼくが見たビリリの3回のライヴはどれも外れがなく、質の高さを持っていたのも当然のこと。とともに、キンシャサの地べたで形作られたその表現はとんでもない強さを持つということでもあるだろう。そして、それが成就するまでには、映画「ベンダ・ビリリ!〜もう一つのキンシャサの奇跡」にもあるようにいろんな紆余曲折があったわけで、本当に頭がクラクラしちゃう。
ともあれ、彼らの態度は正しく、美しすぎる。いやあ、マジいろんなものを出していったナ。ショウのアタマには彼らを扱った映画の予告編も流されたけど、それももう一度みなきゃ。きっと、また新たな発見や感慨とともに、人間と音楽の関係についていろいろ考えさせるはず。この6月30日の項では精一杯あの映画のことを書き� �めたつもりだけど、きっとまた新しい見解や気持ちが頭のなかで渦巻くんだろう。年内にはスタジオ入りも予定されているというが、この傑物グループのセカンド作はどうなるのか。まだまだ、これからだ。
まずは2曲続けて、ピアノによるインスト。その後は歌いもし、ならすなら弾き語り6.5割、歌無しピアノ・ソロ演奏(ちょい鼻歌的に声を軽く出す場合も)3.5割。また、生ギターを弾きながら歌う場合もある(これは、全体の2割ぐらいかな)。割合は大体の目安ですが。
ヴォーカル曲の味はさすが。別に歌そのものを取ると決してうまいわけではないんだが。さりげない、でも確かな楽器と歌の相乗のもと、えも言われぬ 悠久的な流れの感覚や心地よさや含みが広がって行き、聞き手を包む様はなかなかに絶品。いろんな気持ちを抱くことができるし、アルゼンチンって、やっぱ凄いかもと思えちゃう。一方、インストのほうはやはりいろんな要素を孕んでいるのだが、少なくても生演奏に関してはニュー・エイジ・ミュージックになっちゃうところがあって(←まあ、ロマンティストなんだろう)、ぼくの耳にはどこか痒いと感じてしまった。というか、歌が入った時の、聞き味が良すぎるっ。そっちのほうには、彼だけの広がり、誘い、色んな濃淡や明暗などがあって、オーガニックでもあるし、わあいいもん聞いていると思えちゃう。かつ、他に替えはないと思える。
アンコールでは日本人バンドネオン奏者の北村聡とシンガーの松田美緒(2010� �4月19日、他)が出てきて一緒にやる。また、もう一度出てきて、短めにピアノ・ソロも。会場は、表参道・スパイラルホール。あれれ、25周年記念公演と謳われたこの日の公演だけかもしれないが、ステージ高がなく(グランド・ピアノを置いたためかもしれない)、前の方に座らない限り(後ろの高くなっている部分もOKかも)、ステージが良く見えない。ぼくの座った席からは頑張っても、アギーレの演奏している様は当然のこと、眉から上しか見ることができなかった。とても、悲しい。終わった後、知人と流れた先でも、それについての恨みは話に出ざるを得なかった。
客には来日中のグラストン・ガリッツァ(2010年7月22日、他)の姿も。そういえば、前日にアルゼンチン出身で20年強パリに住んでいるアコーディオン奏者� ��ラウル・バルボーサ(12月に、仏人アコーディオン奏者のダニエル・コランと一緒に来日公演をします)を取材したんだけど、アギーレとは全然世代が違うのにとっても仲良しらしい。
なんてことをステージに接しながら、懐かしく思いだしたりして。グアトループにはグオッカという太鼓が中心となるリズムがあるらしく、それを取り上げたジャズをやっているのが、グアトループ生まれで、バークリー音楽大学を経てNY� �居住しているサックス奏者のジャック・シュワルツ=バルト(2003年9月21日)。彼の両親であるアンドレとシモーヌ・シュワルツ=バルト、ともに文学の方では高名らしいですね。なんでもシモーヌの故郷がグアトループで70年以降に夫妻は居住し、ジャックは生まれたらしい。
そのジャックはロイ・ハーグローヴ(2009年6月24日、他)とも親しく、彼のソウル・フュージョン路線=R.H.ファクター(2003年9月21日)の成就を助けたりしたことも。ハーグローヴ作やトリッキー(2001年7月27日)作やソウライヴ(2010年5月21日)作などにも参加し、ネオ・ソウル路線にあるリーダー作を複数持つステファニー・マッケイは彼の奥さんというのはともかく(ジャックは今ベッセルトフトと親しいakiko;2010年1月24日他の03年作をプロデュース� ��たこともありますね)、彼のここのところのリーダー作群はグアドループ出身のミュージシャンを入れた出自応用路線をとっているのだ。
と、ここまでは前置き。そんな彼のトロピカルなんだか都会的なんだかよくわからない(というか、クールにそれらが干渉し合う)表現を愛でて、昨年にジャックをプロデューサーに立ててのリーダー作『Jam Ka』を作ってしまったのが、ギタリストの小沼ようすけ(2004年11月30日)。そして彼、今度はなんとシュワルツ=バルト・バンドを呼んでしまって、同路線のお披露目ライヴをやってしまった。南青山・ブルーノート東京、ファースト・ショウ。この日のみのブルーノート公演と小沼の故郷(秋田)での公演のためだけに、バンドを呼んでしまったそうで、贅沢な。
小沼とシュワルツ=バルトに加え、打楽器二人、キーボード、ベースという、6人で実演。パーカッション奏者たちはもちろんグアトループ生まれで、パリ在住とか。ベースはカサンドラ・ウィルソン(2010年6月13日,他)やスティーヴ・コールマンら辣腕リーダーの作品で弾いている実力者のレジー・ワシントン(2003年9月21日)。NYを拠点としていた彼だが、今はベ� �ギーに住んでいるらしい。グオッカのリズムを言葉で説明するのは難しいが、二人の奏者はけっこう同じ叩きかたで重なるように叩いていた(ヴォーカルだったら、ユニゾンと説明したくなる)のは印象に残る。そこらへん、丁々発止して、隙間を埋め合っていくような感覚も持つキューバン・ラテン等の打楽器の重なり方とは違うナと僕は感じた。そして、そうした間(ま)を持つ打楽器音ベースのサウンドが内に抱えるのは呪術性というか、永遠性というか。←本が苦手なぼくの言だからあてにはならないが、ガルシア・マルケスが持つ感触を思い出した?
そこには一聴のどかな感じもあるのだが、一方では濁った今様な空気感もどこかに持ち……。ゆったり誘うのだけど、どこかでは引っかかりを携え……。微妙な濃淡というか 、不可解な幻想感覚のようなものも、ステージからは送り出されていたか。
小沼はブルース・マンのようにピックを用いず指で弾き、楽譜には絶対表れない、深みやほつれを持つ音色やフレイジングを飄々と送り出す。"ザ・ギタリスト"という風格も、間違いなく出る。ほんと興味深くも、いろんな左手の近い方をしていたような。イケ面ミュージシャンとしても知れれる小沼だが、その左手を見るだけでイっちゃう御夫人もいる? だと、愉快だなあ。というのはともかく、彼の演奏に触れながら、ピック弾きする大半のギタリストはなんと無味乾燥なんだろうと思ってしまった(←少し、誇張)。曲によっては彼、シュワルツ=バルトとともにアウトするソロをとったりも。そういえば、昨年までパリに住んでいたかなり硬派 なジャズ好きの人がフリー系奏者の名とともに、シュワルツ=バルトの名を好きな人としてあげていたな。カリブ系海外県の音楽は本国でも楽勝で入手できるらしい。
良いのすべての人々が行う必要がありますしても何もありません
その後、渋谷・クラブクアトロに行ったら、ジェシー・ハリス公演を少しだけ見れた。アンコールでは、「ドント・ノウ・ホワイ」をやった。
最初の出演者は、ジャスティン・アダムス&ジュルデー・カマラ。アダムスはロバート・プラント(レッド・ツッペリンのシンガーにして、音楽的には愛すべき変わり者)と仲良しで彼の表現に関与するとともに、北アフリカ発の所謂"砂漠のブルース"に強く、ティナリウェン(2005年9月2日)のプロデューサーを勤めるなど、ロック的価値観のもとワールド・ミュージック的表現興隆に寄与している人物。いかにもロック出身の英国人というか、いまだ朽ちぬロック的美意識(だからこそ、脱ロックの広角型姿勢を 取るとも言えるのではないか)を持つ人なんじゃないかとアーティスト写真を見て感じていたのだが、ショウでの妙な気取りゼロの振る舞いには少々おどろく。でっかい仕草で手を打ったり、どんくさいという感想も導くかもしれない大仰なアクションをとってみたり。でも、その底にしっかりと真心が透けて見えた。とはいえ、そんな彼はあくまで触媒/仲介者、その表現の核にいるのは、アフリカ大陸のもっとも西に位置するガンビア生まれのシンガー/弦楽器奏者であるジュルデー・カマラだ。
前者は電気ギターや変な民俗楽器、後者はリッティという一弦楽器やアフリカン・バンジョーを手にする。そのベースレスの重なりに、たぶん英国人だろうデイヴ・スミスというドラマーが重なる。ようは、美と突き抜けが交錯する マカラの弾き語り的なパフォーマンスにロック文脈にあるギター・リフやビート感覚を足して、押し出し/取っ付き易さを強化した表現を彼らは広げる。円満な顔つき(なんか、ぼくはアフリカ調相撲取り顔とも言いたくなるか)でいかにもな民俗衣装に身をまとったカマラは悠々。西側に大々的に知られるきっかけはビル・ラズウェル(2007年8月3日,他)のレーベルから出たラズウェルとフォディ・ムサ・スソ(2005年8月20日)主導の『Aincient Heart;Mandlinka & Fulani Music of the Gumbia』(Axiom,91年)だったわけで、そういう他要素と重なるのは慣れているし、抵抗もないんだろう。最後から2番目の曲はもろにジョン・リー・フッカーのマナーにあるダーティなギター・リフを下敷きにし、最後の曲はボー・ディッドリー(2004年4月12日)のジャングル・ビートを重ねてゴー! 二人は、この後ロバート・プラントと一緒に欧州ツアーをすることになっている。
2番目は西アフリカの海に面していない国であるブルキナファソ(かつて日本のサッカー代表チームの監督をやったフィリップ・トルシエが、日本に来る前にやはり代表チームの監督を務めていた国として、記憶にある人もいるだろう。他のアフリカ諸国と比べ、真面目で思慮深い人が多いそうで、"アフリカの日本"という言われ方もあるそう)のお� �さんヴィクター・デメ(歌、ギター)が、ギター、打楽器、コラ、電気ベースという編成の4人組バンドでパフォーマンス。グリオの家系に生まれながら音楽嫌いで仕立て職をしていた父親に音楽をやることを禁じられた彼は、それでも音楽をしようとしてきた苦労人。コンゴら他国の音楽を歌ったこともあり、父親にミシン使いを仕込まれて裁縫は得意(自分の服だけでなく、メンバーの服も縫ってあげるそう)とも言う彼が広く西側に出て数年しかたっていないが、そのインターナショナル感覚に満ちた鮮やかな広がりを持つ表現にはちと驚く。それは往年のワールド・ミュージック大御所が持つ感触にも似ていると書きたくなるもので、親しみ易くも堂々としていたな。蛇足だが、彼は二人の子供を設けた奥さんがなくなり、今は籍 は入れていないもののパートナーと暮らし、養子も何人か育てている。悩みは、有名人になってしまったので、昔のように飲んだくれられなかくなったこと、とか(笑い)。
そして、最後のアクトは、アフリカの中央部の面積の大きな国コンゴからやってきたスタッフ・ベンダ・ビリリ。すぐに、多くの人が立ち上がる。先に見たいわき公演(2010年10月3日)との明白な違いは以下のもの。1)ロジェは客性側に降りなかった。それはこの会場の厳禁事項になっているからのよう。それは別にしても、いわきのロジェは相当にのりのりでステージを動き、客席に何度も降りたナ。2)テオのパラパラ調の振りがちょい小さく、地味になっているように感じたこと。それ、前よりデカい会場で見ている距離感があるかもしれない。3) それから、<スタッフ・ベンダ・ビリリ,トレ・トレ・フォール>のかけ声をあまりしなかったこと。いわき公演はなんだかんだ、5回ぐらいやっていたと思うけどなあ。4)それから一番大きな違いは、膝だかを痛めて車椅子にてパフォーマンスしていたカポセが元気にいつものように杖をつきつつ立ってショウを行っていたこと。やっぱ、彼は立ってパフォーマンスをしてこそ、格好いいし、見る者をひきつける。5)あ、それから何気に、ステージ後方に出される、曲の内容紹介がヴァージョン・アップしていた。字幕はほんと、好評のよう。
あとは、いわき公演の醍醐味/質を引き継ぐものだが、2500人もの人が最初から高揚しまくってステージに熱い気持ちを送りまくり、彼らもそれを受けて、ぶっとばしたところはあっ� �のではないか。曲目なんかはずっと変化はないようだが、やっぱりノリで尺や歌のやりとりやグルーヴの感覚は微妙に変わっていただろう。クローザーの「トンカラ」のときには、先に出た二組やスタッフが出てきて、後ろにずらりと並び、踊る。場内はよりわき上がる。野外の快感、ありまくり。うーん。お酒が弾む。気持ちいい。楽しい。グっとくる。これ以上、何を求めるというのだ。最高だア!
知人らと流れるが、何か外のままがいいなと、公園内で飲むことを提案。一時は20人近くいたんではないか。宴はいいなー。
出発時の東京は雨天だったものの、会場入りした頃はやんでいた。ただし、曇天にて富士山は見えず、とても残念。1回目に行ったさいに、マサチューセッツのバーク・フェスと似ているとぼくは書いているが、出演者のジェシー・ハリスはボナルーを小さくしたみたいでいい感じ、と言っていた。今年2度目の来日となる彼は今回、ちゃんとバンドでの登場。ドラムはデュオでやった春のとき(2010年4月4日)にも打楽器担当で同行していたビル・ドブロウで、ベースを弾くギレーミ・モンテイロは在NYのブラジリアンたちで組んでいるフォーホー・イン・ザ・ダークのギタリスト。リッチなハリスは新作『スルー・ザ・ナイト』で、彼らをバハマに連れて行って、レコーディングしましたね。モン� ��イロはリオ出身で、NYに住んで10年とか。今回、初来日。聞けば、途中の東名道のサービス・エリアの売店でアイルトン・セナの額縁を売っていて、感動したとか。車もレースも大好き、だそう。そういえば、今日はF-1の日本グランプリの決勝の日だよなあ(土曜の豪雨で予選が中止、この日に予選と本戦が行われた)。そのフォホー・イン・ザ・ダークの打楽器奏者のマウロ・フォレスコは今やロック界では有名人。レディオヘッドのトム・ヨークやレッド・ホット・チリ・ペッパーズのフリーらと組んだアトムズ・フォー・ピースのメンバーであるから。フリーと意気投合したフォレスコはレッド・ホット・チリ・パッパーズの新作レコーディングに加わっているそう。
今回、ハリスはときにがしっと来るリズム隊を得て、全編 エレクトリック・ギターを持ちながら歌う。一言で言えば、"ロックなハリス"。でもって、その行間から彼一流のジューシーさがこぼれでる。演目は近2作からのものが多く、バンジョーが大活躍していた09年『ウォッチング・ザ・スカイ』収録曲も新たな形で開かれる。電気ギターを弾き、押し出しが強くなった事で伝わりやすくなったのは、ギタリストとして力量。さりげなくも技あり、さすがギタリストとしての需用もある人だと納得させられました。
また、2曲ではハリスが可愛がる女性シンガー・ソングライターのハンナ・コーエン(すらりとした綺麗な人)が参加。これ以後、彼らは日本ツアーに入るが、その際は中盤に、彼女をフィーチャーする箇所をもうけるとのこと。帰国したら2ヶ月後に彼女はレコーディン� ��入りするそうで、それはハリスのプロデュースなのと聞いたら、その次はそうなるかもしれないけど、今回はキーボード奏者(名前失念)がするとか。ハリスは少しすると、ノラ・ジョーンズの南米ツアーの前座をしますね。
午前中はピアノ・トリオでも野外フェスを謳歌できることを示すJ.A.M.(2010年6月11日。ピアニストの丈青は新生デートコースペンタゴンロイヤルガーデンに参加もしている)や、ザ・マーズ・ヴォルタのオマー・ロドリゲスとも付き合いを持つサクラメントのポスト・ハード・コア・バンドのテラ・メロスを見たりも。後者は3人組とのことだったが、4人でパフォーマンスをしていた。午後は嗄れ声で自分流に声を載せるSIONをまず聞く。彼、昔はNYのアンダーグラウンド系の敏腕奏者を涼しい顔して雇ってい� ��よな。元東京スカパラダイスオーケストラの冷牟田達之がウエノコウジら豪華奏者たちと組んだスカ・パンク・バンドのDAD MOM GODには会場が一段と沸いた。皆ちゃんと黒傾向の衣服に固め、フレキシブルなホーン音も映える。
会場では何人もの知り合いのミュージシャンと会う。ぼく結婚したんです、と告げてくる人も。おめでとう。隠すつもりもないけど、大々的には発表していない、とか。トッド・ラングレン(2008年4月7日、他)はなぜかロバート・ジョンソン曲をやる出し物バンドでの出演だが、靴が泥だらけにならないよう足元に袋を巻き付けて、彼はお茶目に徘徊。同行ギタリストのジェシーさん、けっこう外見がラングレンに似ていたナ。東京に戻らなければならず、彼の実演は見ていないが、どんなライヴをやったのか。ある人から、実は彼は熱心なECMファンというのを少し前に聞いたよなー。
CIAのプログラムのメンバーになるまでsginする方法
米国に住む坂本龍一や上原ひろみをはじめ、クラシック以外でも、海外を拠点とする音楽家は現在すくなくない。そして、デンマークのコペンハーゲンにも一人、平林牧子は同地で活躍しているジャズ・ピアニストだ。
それにしても、なぜコペンハーゲン。同地は古くから米国黒人ジャズマンが移り住んだ土地としても知られるわけだが。「それは、引っ越してから知りました。オトコについていったんですよ、アハハハ」と、返事は明るく屈託がない。「引っ越しの多い人生だったので、その後20年も住むとは思わなかったですが。でも、コペンハーゲンはコスモポリタンないい街ですよ」
1965年、東京生まれ。ながら、父親の赴任により小学5年生から高校2年生までは香港に住んで英国式の教育を受け、日本の大学を1年でやめて、米国ボストンにあるバークリー音楽大学に進んだ。「テープを送ったら、奨学金が取れてしまいまして。そして、そこでデンマークからギターを学びにきていた主人と出会いました」。
感じるまま、思うままの、風通しの良い人生。4歳からピアノを習い始めたものの、「スポーツのほうを熱心にやっていた」。そして、「ピアノをやっている人は多いので」、小学生から香港時代にかけてはピアノではなくバイオリンを習っている。東京に戻った高校3年生のときには「シンセサイザーに夢中になり、作曲にも向かう」ようにもなった。また、バークリーでは「ピアノが自分に一番近い楽器に思え、ジャズに対する興味もどんどん増した」。
現在、11歳と8歳の二児の母親でもある。「音楽と子育てを両立させていましたが、二人目が生まれたときにはさすがに無理で一時休業ですね。その後、子育てが一段落したときに、こんなジャズがあってもいいじゃないという提案のつもりで録ったのがデビュー作です」
1作目の「マキコ」と続く「ハイド・アンド・シーク」、ともに清新にして闊達なピアノ・トリオ作になっているが、それらを送り出しているのはドイツのエンヤ・レコード。40年もの歴史を持つ同社は欧州を代表するジャズ・レーベルで、古くは日野皓正や山下洋輔らを欧州で紹介した会社としても知られる。「録音したものを送ったら、幸運にも契約してもらえました」。が、それも国際規格の現代ジャズとしての内実があればこそ。
「いろんな所に住み、自分のアイデンティティが不明になって、それを探す過程ででてきた音楽と言えるかもしれない」。様々な場を知り多様な経験を持つからこその、自分探しを経ての、自立した音楽……。だからこそ、中林のピアノ表現は凛とした日本人女性の姿を世界に伝える好サンプルとして輝いている。(音楽評論家・佐藤英輔)
ちなみに、彼女の長男はデンマークきってのサッカー・クラブのジュニア・チームに在籍していて、闘争心のなさを指摘されつつも、長身のアタッカーとして将来を嘱望されているとか。それを聞いて、日本に帰化させちゃえとか、無責任なサッカー・ファンである私はそう不用意に思った、なーんて。
記事中にあるエンヤ発の2枚のトリオ作で絡んでいるデンマーク人のクラウス・ ボウマンとドラマーのマリリン・マズール(2004年2月25日)と仲良く一緒に来日してのもの。ボウマンとマズールは夫婦(マズールの方が年長だが、旦那の方が老けて見える)。米国生まれで、6歳のときにデンマークに家族とともに引っ越したマズールは80年代後期にマイルズ・デイヴィスやギル・エヴァンスのバンドに"自由の"パーカッション奏者として関わった事で知られる奏者で、ECMにもリーダー作を残していますね。
ボウマンはエレクトリック・アップライト・ベースを使用。マズールはいろいろ小物をドラム・セット回りに置いて、どこか打楽器的な演奏を披露する。彼女は1曲目から肉声を披露するなど、かなりフィーチャーされる。CDを聞くと迸るリアルなジャズ感覚がまず印象に残る平林だが、実演ではジャズを� ��におきつつも、より広い世界(それはメロディアスなものであったり、エスニックなものであったり)を求めようとしている姿勢をまず受けたか。アコースティック・ピアノで勝負している彼女だが、実はジョー・ザヴィヌル/ウェザー・リポートなんかも大好きなんだよね。
ファースト・ショウを見た後、横浜に出て東海道線に乗って東京駅下車。丸の内・コットンクラブへ。そちらは、NYに住むブラジル人と韓国人ギタリストの共演パフォーマンス。お互いのリーダー作に参加し合う二人だが、彼らの寛いだ交歓に触れれば、普段から仲良しなのはよくわかる。どっちかの家のリヴィング・ルームでのギターを持ったやりとりをここでも再現している、なんて説明の仕方をしたくなるか。ミルトン・ナシメントのバンドを皮切� �にそうそうたるキャリアを持つオルタは実に飄々、スーダラとも少し言える風情でギターを弾き、歌う。ソロでやった曲はくっきりとクラシック・ギターの心得が外に表れる。ボブ・ジェイムズとの活動なんかでも知られるリーはニコニコしながら、基本はオルタ流儀に合わせて行く。ときにソロはパット・メセニー的、そういえばメセニーもオルタに最敬礼していた一人だった。韓国曲「アリラン」をボサノヴァ調にして歌ったりも。それ、二人の2000年連名作『From Belo to Seoul』に入っていますね。それから、日本人歌手のnobie(2010年5月9日、他)が途中で出てきて、歌う。日本語で、「東京、名古屋、京都、大阪、博多/福岡 新幹線〜」と、オルタと一緒に歌った曲は楽しい。
途中、バンドがひっこみ、前回の来日ショウを思いださせる、アンダーソンの電気ギターの弾き語りパートへ。その途中で、渋谷・クラブクアトロに移動、スペイン/バスク地方出身のダンス・ロック4人組のデロリアンを途中から見る。
ベース/歌のお兄さんを中心に、二人のギター奏者(一人は鍵盤を扱うときも)、ドラマー。彼らはレイヴ以後の開放系ダンス調曲をヴォーカル付きで広げて行く。歌はみんな英語で歌われているはずだし、スペイン色はゼロ。おっちょこちょいなぼくはスペイン色をどこかに求めた� �もなるが、スペインぽくないのは別に悪いことではない。だって、ぼくだって日本のロック・バンドやファンクの担い手に特別に日本的な何かを求めないはずだし。モノによっては日本人らしさをインターナショナル流儀にとけ込まさせていて感服する場合もあるが、それはあくまでうれしいオプションであるしなあ。ぼくが非英米の担い手に求めるのと同様、やはり英米の聞き手は日本のポップ・ミュージックの作り手に彼らの中にはない変な要素/日本人的な異物感を求めているんだろなー……とか、彼らのことを見ながら、いろんな事を考える。
そして、南青山・ブルーノート東京で、アメル・ラリュー(2000年6月13日、2004年5月10日、2006年10月13日)をフィーチャーしたグルーヴ・セオリー(アルバムは約15年前に出した1枚� �け)を見る。うわ、さっきよりもっといろんな事を思った、ショウではあったな。
サポート陣が1曲演奏したあと、プロデューサー役(PCとかいじっていたのかもしれないが、実演上は何をしていたのかは判らん)のブライス・ウィルソンとシンガーのラリューが出てくる。バンドは良質、キーボード(バッキング・ヴォーカル)、ベース、ドラムという布陣で、ドラマーだけが白人、キーボード奏者は可愛らしい女性。痩身のラリューはツナギを飾り気なく着ていたが、綺麗な人は何を着ても似合い、魅力的に見えるんだな。と思ったのもつかの間、ラリューが歌いだすと、なんか……。あれれ、こんなに素人ぽく歌う人だっけか。緊張している感じもなくはなかったが、過去の彼女のソロ公演は最初から違和感なく、思うまま私 の流麗な喉をアピールしまくったはずなのに。声量も以前から見れば小さく、これはどうした事か。凝った節回しはラリューだと思わせるものだが、なんか違和感をおおいに覚える。
が、中盤あたりから声が出るようになり、そうするとその奔放な歌い口も無理なく光ってきて、ラリューたるエクセレントさが聞き手にごんごんと向かってくる。と同時に、バンドの音も大きくなったのは間違いない。PAの操作はどのぐらい聞き味に影響しているのか。???? 途中からはオーイエー♥な、現代R&Bショウ。過去に受けた姿とこんなにも隔たりがある実演も珍しかったし、ショウの始まりと終わりでこんなにも魅力が異なるものに触れたのも初めての事のような。まだ初日なら判るけど、ぼくが見たのは4日目のセカンド・ショウ� �他の日はどうだったんだろ。ライヴ・パフォーマンスの不可解さをこんなに感じた晩もそうはない。それとも、じわじわ盛り上げようとした、ブライス・ウィルソンの方策? まさか。
バンドは、二人の女性コーラス、ギター、ピアノ/キーボード、ベース、ドラム、サックス、トランペットという布陣。コーラスはアフリカ系のビッグ・ママ体型の比較的若いお嬢さんたち。演奏陣はアフリカ系の人はおらず、分厚い譜面を前にニコニコ弾いていた鍵盤奏者は日本人、もしくは東洋系の人(事前に名が出ていて人とは別のよう)。冒頭、2曲は延々バンドによる演奏。それには、ちょいは嫌なキブンになった。高齢でそん� ��に歌えなくなっているからこそ、バックの演奏で水増ししているんではないか、と……。
が、本人が出てくるや否や、それは杞憂であることを一発で感じる。何か、出てきた風情、客を見る余裕にしてショウマンシップに満ちた眼差しだけで、即、「おお本物、彼は間違いない」てなことを皮膚感覚で感じさせられちゃったもん。綺麗にスーツを来た彼は坊主頭になっていた(ハゲという感じはない)が、太ることもなく、元気そうだ。ショウはブルース系スタンダード「レット・ザ・グッド・タイムズ・ロール」からはじまったが、実際ちゃんと歌える。それ、レイ・チャールズも歌っていたが、続くは彼の「ハレルヤ・アイ・ラヴ・ハー・ソー」。ここらあたり、伴奏は結構ジャジーだが、彼は90年代後期にジャズ・レーベル� �ハーフ・ノートからビッグ・バンド調伴奏がついたリーダー作を出していたから、無理はない。「ハレルヤ〜」はそこで歌ってもいましたね。
彼は名コーラス・グループのザ・ドリフターズのリード・シンガーを勤め、60年以降はソロとして活動するようになっているが、「ラスト・ダンスは私に」とか「ディス・マジック・モーメント」とか「渚のボードウォーク」とか、同グループのヒット曲(彼が出て以降のものか)も披露。一方で、R&Bの広義の財産を愛でると言った感じで、あまり彼と繋がりを持たない有名曲を歌ったりも。実は、ぼくが一番高揚したのが、ウィルソン・ピケットで何より知られる「イン・ザ・ミッドナイトアワー」(これも、彼が出て以降のザ・ドリフターズは取り上げているが)。その弾む感覚を持つ 歌は60年中期のネオンきらめくNYブロードウェイの華ある風景をすうっと見させるような誘いがあって、ぼくは震えた。本当、見に来て良かったァ……。途中からは少し喉に疲れが見られるようになった気もしたが、ちょっとした見栄の切り方や客あしらいの上手さはずっと維持されていて、感服。やっぱし、偉大なR&B/ブラック・ミュージックの得難いマナーを存分に感じてにんまり。もちろん、自身のヒット曲「スタンド・バイ・ミー」も歌う。で、(その曲を見目麗しくカヴァーした)ジョン・レノンの誕生日がもうすぐなんだなと不意に思い出した。
ピオリア、イリノイ州の人口は何ですか?
立派になりなさって。当時の跳ねっ返り心意気系担い手としてはもっとも健在、いやより一層の力を得て輝いている人と言えるか。バスクやガリシアの血を引くとも言われ、今はバルセロナに拠点を置き、スペイン語などで歌うなど用いる言葉もリベラルな感覚ととにもに広がった彼だが、来日は2002年のフジ・ロック以来(7月26� ��〜)。その項で書いてあるように、雑誌原稿との重なりを避けるために、彼のパフォーマンスについてはそこで触れていないが、思った以上にレゲエ/ダブ色を通ったサウンドのもと地に足をつけた濃い歌心を彼はまっすぐにオーディエンスに送りまくっていたよなあ。で、今回はあのときのようなバンド仕様ではなく、選抜メンバーによる、全3人による簡素編成によるもの。
生ギターを弾きながら歌うチャオに加え、最初のほうは生ギターを持つギタリスト(ちょいフラメンコ的な奏法を見せたりも)と、ドラマー。途中からは、ギタリストが電気ギターに持ち替えた(ロック的に、少し通俗的な演奏になったという感想も持つ)がなんにせよ、片肺編成でも、なんら問題ないぢゃん。もう、バスドラ音も強力な豪腕ドラマー� ��きっちり叩くせいかベーシスト不在も気にならないし(ときにドラム音にはダブ的効果が施されたりも)、サウンドも無理なく雄弁。でもって、そこに、きっちりと聞き手に届くチャオの歌が乗るのだから、もう見ている端から醍醐味たっぷりで、オレは替えがきかないチャオならではの表現を真っ向から受けているという感激に包まれちゃう。
チャオは随所で、マイクで心臓部を叩いたり(それは、心臓の鼓動を模した音を出す)、同様に頭をごんごん叩いたりして、気持ちの高揚や観客への感謝やショウにこめた強い気持ちを表す。そりゃ、音楽自体のパワーともども、見る者は鼓舞されます。客は一緒に歌ったりもし、すげー。まるで、日本の会場じゃないみたいだった。すぐに売り切れになったという公演、恵比寿・リキ� ��ドルーム。
アンコールに2回(だよな?)に答え、会場は明るくなる。だが、熱心なファンは歌い続け……、そしたら5分後ぐらいに、オマエらの意気に応えなくてどうすると言った感じで、3人は出てきてまた演奏。ああ、J・ガイルズ・バンド(大昔、アメリカのストーンズ、という言われ方もあり)のピーター・ウルフの真心熱血漢ぶりを思い出しちゃった。→彼らの70年代後期の新宿厚生年金会館のライヴのさい、ウルフは公演が終わった後、一人でのべ10回ぐらい出てきて(トレードマークが蛙飛びで、それもしました)、声援に応えた。最後は緞帳なども全て片され、素の舞台となっていたんだよなー。また、90年代に一度あったウルフの渋谷クアトロでの単独公演も熱かった!
真実の男、マヌ・チャオ、ここに� �り。
判っていたつもりだったが、びっくりした。音楽に在する言葉を超えたものに接して、頭が真っ白になり、気持ちが沸騰した。それは、4曲目にやったもっともファンキーな(スラッピング調のベース演奏から始まる!)、後半はよりジェイムズ・ブラウン調になったりする「ジュ・テーム」のとき。ぼく� ��後ろのほうで最初から立って見ていたのだが、このファンキー曲の途中で、横のほうにいた車椅子の方が拍手しながら立ち上がったのを目撃してしまった。それに触れたとたん、ぼくは胸が一杯になって、グっと来てしまったんだよな。いやー、まいった。
前に車椅子に乗った5人が位置し、後ろに健常者の3人。楽器はギター(ときに2本)、ベース、ドラム(本当に手作りといった感じ。曲中展開の変化は、ここから合図される場合が多い)、そして世界で一人だけ演奏する(?)サントゲ(一弦のハンド・メイドの楽器)。サウンド面での要を担うベース奏者以外は皆ヴォーカルを取り、曲によってはリードは代わり、ときに所謂ラップもかまされる。……んだが、おお。その肉声の絡みはより重厚かつ多彩になっているし� ��しっかりたリズム隊に支えられたサウンドがとにかく逞しくもぶっとい。「トンカラ」をはじめ曲は共通する物が多いが、09年までの姿を収めた映画(そして、クラムド発のアルバム)での姿が頭にあると、これは間違いなく驚く。うーぬ、数を重ねた欧州ツアーでどんどんサウンドは強化され、PAの用い方も巧みになり(コンソールを扱う白人くんは2度目の来日で、前回はコノノNo.1;2006年8月26日&27日、で来たそう)、今っぽい輝きや立ちをました表現を送り出すようになっているのは間違いない。アンプリファイドされたサントゲ音もよりパワーアップ、ときにテルミン化している? ホームレスだった彼らはみんな家を買えるようになったそうだが、それがいい方に働いている、という見解がとれる。
そして、見え方と� ��うか、振る舞いもよりアトラクティヴ。思い思いの格好はそれぞれにカッコいいし(車椅子もそれぞれにデコレーションされている。それは、日本の各地のサポーターが各々つくったものだという)、イナセというか、まったくもっていい感じ。で、ステージを走り回り、ときに客席側に降りるサントゲのロジェは当然の事、車椅子の方々も巧みにそれを操り、動きまくる。わあ。それぞれがちゃんと見栄の切り方を知っていて、決まるというか。いや、心からの感情の出し方/他者への振る舞い方を本能として持っていて、それがくっきり受け手に伝わると書いたほうがいいか。
それから、オーディエンスに大きくアピールしたのは中央メンバーの一人(テオ)の訴求力たっぷりの、大きな手振り。それ、まじにパラパラのごと� ��。おれ、すんごくパラパラ踊りのことを馬鹿にしましてましたが、今回印象が変わったかも。あ、盆踊り的なフリとも言えるかな。彼をまねて、踊る人多数。それにしても、あれはコンゴの伝統的な何かと結びついてのものか。昨年夏にパリで彼らの事を見た人が言うには、そのときはあそこまで明解な動きは見せていなかったという事だが。やっぱり、彼らは状況の好転とともに、どんどん変わってきているのだと思う。
会場の前方横のほうにはお立ち台的なスペースがあって、そこでは高校生たちが大盛り上がりで踊りまくっていたこともあり、その両端から高揚のヴァイブは会場に広がって行き、もちろん最後の方は総立ちの体。ぼくの近くにいたご老人も中盤からこりゃたまらんという感じで立ち踊りまくり、かけ声もあ� ��る。いいぞいいぞ。マニアックな音楽ファンだけでなく、初めて接したような人をも見事アゲアゲにする、その純なパワーは本当にすごい。観客のする手拍手はけっこうズレていたりもするのだが、いつもだったらイラっと来そうなそれも、この日はイエイと心から思っちゃう。そんなのビリリの前では、些細な問題。とにもかくにも、聞き手の鎧をといでいく様、ステージと客席側の一体感のあり様には、正の感情いがい持てません。←いやあ、音楽の捉え方が少し変わりそう? 暴言をはくなら、そのサウンドはポリリズムな感覚ももちろん持つから、ズレていてもなんか合ってくるか。それに彼らの雑草のような表現はそれを無理なく飲み込んじゃう。なんか、ライヴの美しい光景を目の当たりにしまくっているという気持ちを、� �すうしまくり……。
音楽の神から祝福されまくった公演だったのだと、痛感。あら、大げさ? 長丁場の日本ツアー、残りは6公演。日比谷野外大音楽度でのアフリカ勢が複数出る<ワールド・ビート>はいったいどうなることやら。メンバーも発する合い言葉は、スタッフ・ベンダ・ビリリ、トレ・トレ・フォール。それ一緒に連呼すると、超ほこらしげな気持ちになる。
翌日、ベンダ・ビリリは車椅子の子供たちが通う地元の擁護学校(立派な建物だったなあ)に慰問。のぞかせて、いただく。全校生徒が100人ほど集まった体育館で、完全ノー・PAにて、彼らは2曲演奏。「ポリオ」と「ママ・アフリカ」だったけかな。ドラムのモンタナは片手に小さな鳴り物を持つ。かなり音が小さいためか、アンプラグドでもベース� ��音やサントゲの音は意外に聞こえる。おお、これはこれで貴重なパフォーマンスではあるなあ。とともに、改めて、PAを介しての彼らの起爆力も思い知らされる。生徒たちとの質疑応答ももちろんあり、こういうときリーダーのパパ・リッキーの返事は正しくも含蓄深し。さすが。そして生徒が数グループに分かれての記念写真もし、メンバーは低学年の子供たちをそれぞれ抱いたりもする。その写真が皆の宝物になりますように。その前には、生徒たちが作ったいろんなプレゼントがビリリの面々に贈られたりもした。
改めて、裸に近いビリリの音に触れられて興味深さを思えるとともに、ハンディを背負った子供たちの元気な姿や、コンゴ勢との交流の様に触れ、いろいろな思いが身体の中で渦巻く。うん、いろいろ考えよう� �
ビリリの控え室になっていたのは、音楽室。交流が終わった後も、面々は嬉々として、そこにある楽器をいじる。音楽発生の原点。ギター、キーボード、電気パーカッション・パッドなど、それらを扱う様を、うれしそうに覗く子も。数年後、この日に受けた衝撃を根におき音楽の才を大きくアピールする人が出て来たなら。。。
いろんな感慨を受け取ったあと、すぐに雨のなか東京に。気が弾んでいたためかパーキングにはよらず、常磐自動車道/首都高がすいていたためもあり、2時間で家に着く。そして、↑
黒いTシャツにシーンズといった感じで、ステージ上の4人は実にチープな格好をしている。少し、なんだかな。ドヒニーはかつて、LESVIS a BOISという日本の服飾ブランドの宣伝キャラクターをしていたことがあった。それから、みんな頭髪がフサフサしているのには印象が残る。外国人はハゲが少なくないので、50代超えの人が揃ったバンドでそれは珍しい。生ギターと電気ギターを曲によって交換しながら歌うドヒニーの歌は不安定なときも。もともと優男風情のほんわかヴォーカルで売ってきた人だけに違和感は大きくはないが、近年はそんなに歌っていないのかもしれない。でも、この実力者が揃うバンドを組むのだから人望と力あるんだなー。アンコールはチャカ・カーンが81年にヒットさせた「ファッチャ・ゴナ・ドゥ・フォー・ミー」、これドヒニーとへイミッシュ・スチュアート(2006年3月8日)の共作曲ですね。客は、男の比率が高かった(終演後、サインをも� ��う列がずらり)。六本木・ビルボードライブ東京、セカンド・ショウ。
気鋭の管楽器奏者をフロントに3人並べ、多くはツイン・ベースで事に当たった新作『バロック』をフォロウする一回こっきりの公演。渋谷・オーチャードホール。大西順子(ピアノ、2007年9月7日、他。マダムな髪型/格好してました)、ジェイムズ・カーター(リード)、ニコラス・ペイトン(トランペット、2010年7月24日)、ワイクリフ・ゴ� ��ドン(トロンボーン)、レジナルド・ヴィール(ベース、2007年9月7日他)、ハーマン・バーニー(ベース)、ハーリン・ライリー(ドラム)、ローランド・ゲレロ(パーカッション)。バーニー以外はすべてアルバムで弾いていた人、よくぞスケジュールをそろえましたね。
一部チャールズ・ミンガス表現に対する愛をにじませた同作は手練なんだか青いんだかよく判らぬ、でもようやったなーとコックリさせるパワーと醍醐味あふれる仕上がりを見せていたが、それをもとに、再度開き直そうとした実演。もうごんごん、尋常ならぬ何か、ジャズたる凸凹があったのは間違いない。
開演前に、隣の東急本店に開店したマルゼンとジュンク堂のコラボ書店に寄る(HMV渋谷店の閉店と重なるようにできた、という印象をぼくは持つかな)。ほう! 海外に行って、こんな本屋に出あったらドキドキしてずっといるかも。あまり本を必要としないぼくだが、海外に行ったときはけっこう本屋をのぞくよなー。だって、その国の何かに如実に触れることが出来るし、お土産も買えるし。ともあれ、都会に住む� ��恵をかなり感じさせる店舗なり。
今回のショウは<Colors-The Ecology of Oneness:A Suite for Jazz and New Media>となづけられた、複合的組曲を披露するもの。オレンジ色や水色や赤といった色と、地球や植物や時間や空や人類とかいった概念を組み合わせた8つの曲からなる完全書き下ろしの曲が悠々と演奏され、ステージ後方には込めた意思を具視化させんとする映像も映される。これ、今回が世界初お披露目とか。入場前には、かなり練られた組曲の説明(先人の言葉もいろいろ引用されている)が印刷されたカラー印刷の説明書が配られたが、それはそうとう気合いを入れ、時間をかけて作られたよう。同チラシには音楽を担当するトリオの3人の名前の他にも、リサーチや能書きや映像を担当する4人の名前も出されている。なるほど。また、公演最終日の10月2日の昼下がりには、今回の組曲にまつわるトーク・ショウを彼は行い、そ れはユーストリーム(www.ustream.tv/channel/bluenotetokyo)で中継されるという。
過去いろんなことをやってきたことを示唆するようないろんな要素/構成が入ったピアノ・トリオ演奏(ベース奏者の多彩な演奏を聞いても、それは判るだろう)群が流れて行く。あんまり楽譜に頼るという感じはなかったから、相当リハもつんだのではないか。ぶっちゃけ、音楽だけで楽しめといったら、手放しで入り込めない部分もあるかもしれない。能書きだって、感覚一発が善と考える場合が大半のぼくにはよく判んねーやという感じもある。だけど、意欲満々、誠意や問題意識たっぷりに事に当たる姿、何かを伝え作りたいという強い気持ち、大がかり&酔狂なことを出来る境遇のまっすぐな行使の様に、ぼくは大きく頷いた。ルイスはエスタブリ ッシュされた音楽家として、彼なりに澄んだ姿勢で、落とし前を付けている! そして、こういう人が音楽の深みを増させたり、領域を広げてきたのだとも思ったりした。
ちょうど1時間の組曲を終えた後、そのまま本来はアンコールとして用意されただろうファンキー十八番曲「ザ・イン・クラウド」を披露。そして、アンコールでは、どこかニューオーリンズ・ジャズ調とも言いたくなる感じで開かれた自作「モーメント・スピリチュアル」も、彼らは悠々演奏した。
ウワサには聞いていたが、なるほどこんなん。うれしく、身体が揺れました。三管とリズム隊(皆、おそろいの格好をしている)をバックに弾ける。キーボードレスの編成、通常ファンクはキーボード付きでなされる場合が多いが、よく整備されたバンド・サウンド(けっこう、曲趣を支えるホーン・アレンジとか感心)に過不足は感じない。JB の美味しいアクセントや癖を拡大抽出し、日本人たる凸凹(確かな語呂/言葉遊びの感覚や振る舞いの機微など)を介してうまく押し出す。浜野の笑えるキャラやMCもあって、しっかりと日本人としてあってしかるべきファンク表現を作っている。あり、大アリですね。「キズ」という曲のAメロというかAラップ部はなんかアヴェレイジ・ホワイト・バンド(2007年11月26日)の「カット・ザ・ケイク」を思い出させた。
1部のほうは、けっこうメロディアスというか、日本のポップス的なメロディを持つミディアムを連発してびっくり。広がりを求める処方としてはよく判るし、やるべき。ながら、そっちの方をやると、浜野の歌もホーン音なども(ファンク曲に比すと)下手に聞こえた。
きっちりリハをやっているとも思えないが、けっこうソツなく重なる。とともに、特に歌モノのバッキングをやっていると、渋さはやはり腕は立つのだなあ� ��も思わせる。随所でオルガン音が効いているナと感じたが、それは今回の公演に参加(したはずの)エマーソン北村(2005年2月15日)が弾いていたのだろうか。リーダー/コンダクターの不破大輔はマイクを差し出され(テニスコーツのとき?)、少し歌ったりも。彼、マメに絡みを掌握しつつ、途中からは結構出来上がっていた? 観客は前回の日比谷野音のとき(2009年9月27日)より狼藉する人が少な目。それはゲストという中和剤があったため?
70年代後半から80年代にかけてきっちり天下を取っていたキャミオを率いるラリー・ブラックモンもまた、酔狂さ/マンガの奥に� �しがたいクールネスを感じさせる人物だ。アトランタ・アーティスツという事務所を持っていた(いや、今も持っているのかな?)彼は、90年前後に同社の日本部門を設立したがっていて(日本人ソウル系アクトを制作したり、サポート奏者を仕出しするという、目論みを持っていた。結局、実現しなかったはず)、公演とは別に複数回来日した事があった。そうしたおり、一度インタヴューする機会を得たが、趣味の良いチェックのシャツを着た彼はこなれた黒人エグゼクティヴ感覚がむんむん。ステージでの姿との落差は清々しいぐらい大アリ。そして、きっりちと視点(と、確かな音楽知識。彼はブラック・ミュージックのメインストリームの変遷にも確かな見識を持っていた)を抱えて音楽活動にあたっているのが手に取るように� ��る発言を連発してくれたっけ(←そういう人が繰り出すファンクだけに、アンダーワールドのカール・ハイドも大好きだったはず。2010年6月24日、参照)。その尽きぬ意欲の様に、すでにちゃんとエスタブリッシュされているのに凄いですねみたいなことをぼくが言うと、「いや、マイケル・ジャクソンみたいな成功を収めないと、成功したとは言えない」と、真顔で答えたのは印象に残っている。で、彼はまだまだ上昇していくはずと思っていたら、すうっと前線から消えてしまったんだよなー。
丸の内・コットンクラブ、ファースト・ショウ。個人的には、90年代初頭に横浜で公演をやったとき以来(きっちりショウアップされていたはずの実演のことよりも、帰りに車に乗せてほしいという人が複数いて定員オーヴァーで東京� ��戻ってきたこと、第3京浜をおりてからの深夜の環八がハンパなく渋滞していたことのほうが、鮮明に覚えているなー)見るキャミオのショウ。ステージ後方に位置するドラマーと二人のキーボード以外、フロントに立つ2ヴォーカル、2ギター、ベースは全盛期の顔ぶれ。もう、ぼくはジミ・ヘンドリックス耽溺野郎のチャーリー・シングルトン(昔は、左利き用のストラトを逆さにして、弾いていた。右利き用ギターを逆さにして弾いていたサウスポーのヘンドリックスの逆ですね。関係ないけど、ブラック・ロック・バンドの24-7スパイズのギタリストはヘンドリックスとエディ・ヘイゼルの名を取り、ジミ・ヘイゼルと名乗っている)がいるだけで大盛り上がり。そのシングルトンは右利き用のギターを持っていたものの、それは� ��ンジョーをサイバーに加工したような特注ギター。でもって、メタリックの仮面をしつつ、上半身ははだけていて、ツっぱった変な黒人度数はぜんぜん衰えておらす、感激。演奏はヘンドリックス調ギター・ソロをとってもいたって危なげない常識的演奏でガッカリさせてくれたが。当のブラックモンはあんまし老けたという感じはないが、少し太っていた。股間にはかつてのトレードマークであった赤色のカップを未だ付ける。また、ベースのアーロン・ミルズは頭に王冠をつけていて、ベース・ソロは首の後ろにジミ・ヘンドリックスのようにベースを回し、涼しい顔して手弾き演奏をする。おお、ベースでそういうことをやる人を見るのは初めてのような。拍手。
演奏曲は当然、ヒット曲群連発。それをノンストップ気味に� ��開いて行く。ちょいスロウ目の曲にはホーン音が欲しいと感じたりもしたが、すうっとマイルズ・デイヴィスのミュート音が聞こえてくる気がした局面も。それ、88年作『マチズモ』にデイヴィスが客演していた事実が頭にあるからか。ブラックモンの父親が体つき貧相コンプレックスだったデイヴィスのボクシングの先生をしていたことがあって、両者は顔見知りであることから、その共演は実現したんだっけか。演奏時間は60分ちょうどで、アンコールはなし。ブラックモンが"ナショナル・アンセム"と言ってやった「ワード・アップ!」が最後の曲。アメリカの「名前のない馬」と並ぶ、史上最も単純な構造を持つ(ある意味、魔法が働いている)大ヒット曲。さすが、このあたりで場内はほぼ総立ちになったが、このハコのブラ� ��ク・アクト系オーディエンスには珍しく、お客さんはけっこうおとなし目。こういうときもあるんだァという感じ。
この後に南青山・ブルーノート東京で見たUKインスト・バンドのザ・サウンド・スタイリスティックスは知名度ということにかけてはキャミオの足元にも及ばないが、熱心な聞き手がついているのか、最初から客席側がわいていたな。
英国のセッション系奏者が集まっているんだろう、6管(2トロンボーン、2トランペット、2サックス〜うち、一人はバリトンを多用)を持つ大所帯バンド。打楽器奏者を除いては皆30代か。MCは手慣れた感じでトランペット奏者がするが、タイト&ファンキーなビートのもと、菅のセクション音が屈託なく踊る様には、難しいこと考えることなく、のせられる。テナー・サ� �クス、キーボード、ギター、ベース、ドラムあたりはなかなかの手練。イギリス人もやるな。好ファンク曲の要素を上手く抽出した(たぶん)オリジナル曲をやるなか、ジャクソン5の「ウォント・ユー・バック」とアイズリーズの「イッツ・ユア・シング」のメドレーも。前者は少し手を加え過ぎで、少し気持ち悪かった。
2部構成のショウ。1部ではハンバート・ハンバート(2009年 10月7日、他)、2部では大貫妙子(2009年1月16日、他)が入って部分的にデンマーク勢と絡む。ちょっと一緒にやってみましたという水準を超えた細やかな重なり方にも、デンマーク勢の真摯さが表れる。でもって、ジャズ的なインタープレイという文脈とは別のところで、他者と敷居低く協調できちゃったり、歩み寄り合ったりできちゃうのが、フォーク・ミュージックの美点なのだと思わせられた。
また、大貫はアンコールで、日本の古い歌「この道」(作詞/北原白秋、作曲/山田耕筰)を、ハウゴーたちをバックに歌う。ヘレーネ・ブルームも歌で加わる。すうっと時間が止まる。うわああ、耳に自然に入る歌詞も含め、いい歌なんだあ。なんか、感じ入ってしまったな。そして、それが地域/文化違いの担い手たちが重な� �て無理なく重なり、新たに開かれる風情のいい感じといったなら。先(2010年8月24日)の「上を向いて歩こう」もそうだが、トップ級にイケてる日本の歌なのではとも酔っぱらった頭で思った。流れた先に博識な方がいて、山田耕筰は軍歌や校歌なんかもいろいろ作っていたそうだが、ちゃんと海外で学んだクラシック畑の御仁だと知る。でもって、お金と女性にきれいではない、山っけたっぷりの人だったんだよとも教えられる。そうなのか。なんにせよ、この晩の「この道」はぼくの胸にするりと入り、大きな波紋を残したのは間違い。ぼくにとってのこの晩のハイライトは、間違いなくこの曲を披露した場面でした。
渋谷・Jzブラット。バー・カウンターの後ろにステージの模様が映されるのだが、橋本の手元もちょくちょく映されていて、興味深い。大昔、モーション・ブルーの菊地雅章公演でも終始手元がステージ背景に映し出されて膝を打った事はあったが。なぜ、ステージの絵が映し出せる会場はもっと積極的に客席側から見えにくい奏者の手元を見せてあげようとしないの� �。音楽によってはそれが味わいを減らす場合もあるかもしれないが(奏者によっては映されるのを嫌がる人もいるかもしれないが、基本そういう担い手はライヴ・アーティストとしては淘汰されるべき)、大方はその方がその場で送り出される音楽をリアルに感じ取れるはず。旧来の送り方をのうのうと踏襲せず、もっと音楽ヴェニューは実演提供の改新を模索してもいいのではないか。
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