2012年4月30日月曜日


2012年4月27日金曜日


The location was excellent and i liked the hotel was close to the main strip.

This hotel is in a great location, very family friendly, free continenetal breakfast was a nice perk.

A little odd that there were mirrors everywhere in our room, including over the bed, and there was no shower, just a shower hose/head over the jacuzzi.

Excellent staff, comfy bed and the complimentry breakfast was a good.

The beds very comfortable and great and big breakfast as buffet.

2012年4月26日木曜日


11月24日(水)児童公園では木々の落ち葉が重なり合って冬の訪れを待っているかのようです。
サクサクと踏みながらの通勤は心静まる今日この頃です。

さて今日のご紹介は三重県名張市の「赤目四十八滝」です。

名は無くも 赤目の滝の 一部分 (稲畑 汀子)

赤目へ向かう道路わきの景色(11月21日)

赤目四十八滝
住所:三重県名張市赤目四十八滝
訪ねた日:2010年11月21日(日)
歩いた歩数:16815歩
歩いた距離:10.2km
歩いた時間:ほぼ4時間

【本店ショップのご案内】
自然を楽しもう!を合言葉に、普段使いにも便利で楽しいアウトドア雑貨をたくさん掲載しています。ぜひご利用下さい!
(商店名をクリックするとページが開きます)
アウトドア雑貨のOnline Shop grove
アウトドア雑貨のGROVE-eshop.com

※本店2店では多少ラインナップが異なります。お好みでご利用ください。

赤目四十八滝
住所:三重県名張市赤目四十八滝
訪ねた日:2010年11月21日(日)
滝の名前
行者滝、銚子滝、霊蛇滝、不動滝、乙女滝、大日滝、八畳滝、千手滝、布曳滝、竜ケ壺、斧ケ渕、縋藤滝、陰陽滝、百畳岩、釜ケ渕、七色岩、姉妹滝、柿窪滝、笄(かんざし・ケイ)滝、雨降滝、横渕、骸骨滝、斜滝、荷担滝(にないたき)、夫婦滝、雛段滝、琴滝、琵琶滝、巌窟滝など。
主な滝:赤目五瀑
不動滝:高さ15m幅7m滝壺深さ10m 不動橋からの眺めが最高(明治までここまで)
千手滝:高さ15m幅4m滝壺深さ20m 岩を伝い千手のように落水。
布曳滝:高さ30m   滝壺深さ30m 各地の布曳滝の代表格。
荷担滝:高さ8m    滝壺深さ10m 岩を挟んで二つに分かれて落ちる姿が荷物を担ぐように見えることからこの名がつけられました。
琵琶滝:高さ15m   滝壺深さ15m 滝の形が琵琶に似ていて、滝壺は深い蒼色。

2012年4月24日火曜日


 さて、前回 の続きです♪

 午後はブルペンから覗いてみました。そしたらびっくり・・・もう初日からアクセル全開でした!


 まずは上野大樹! ついさっきまでサブグラウンドで腰を落としたフォームで自主練をしていたのですが、その直後にブルペン入り。かなりの球数を投げ込んでいました。東洋大の後輩でもある藤岡貴裕も入ってくる2012年シーズン、上野は絶対に負けてはなりません。



 受けるのはホンモノのプロのキャッチャー!(当たり前か・・・)金澤岳でした。金澤も、日に日に逞しく、そして頼もしくなっています。彼にとっては「ポスト里崎不在」という言葉は屈辱であるはず・・・

捕手という字を 辞書で引いたぞ

岳(あなた)の名前

そこに書いておいたぞ

 きっと保田圭は歌ってくれます(「後藤真希」に行かないところが町田ロッテ)。


 そしてお隣は阿部和成。3年前のファン感謝祭であどけない笑顔でファンに接していた少年は、確実にプロ野球選手になっていました。真剣な表情でブルペンに臨みます。


 成本年秀投手コーチも、期待を込めて真剣な眼差しで阿部の投球を見守ります。


 投球後、年齢では1つ上でもある小池翔大からしっかりアドバイスを受けます。



 小池も真剣そのもの。

小池して 仕事して

歴史刻んだ QVC(ちきゅう)

 苦しいけど、飯田圭織は歌ってくれるでしょう(「安部なつみ」に行かないところが町田ロッテ)。



 そして初日からガンガン飛ばし、もの凄い表情で投げるのが「抜擢」とも言える植松優友。ちょうど隣で同期、かつ一軍デビューにおいて植松にとっては「先を越されてしまった」形となった阿部が投げていただけあって、「出遅れた一年」を感じながらの練習だったかもしれません。こういう選手にとっては本当に大事な鴨川キャンプとなります。



 こちらは、もはやベテラン格の田中雅彦が受けます。

ロッテの未来は

2012年4月23日月曜日


 いまや映画俳優というより大監督になってしまったクリント・イーストウッドの息子で、父親の監督作品の音楽にも関与している(「硫黄島からの手紙」のテーマ曲なのかな、それもこの晩やった)、パリ在住(多分、今もそうだと思う)ジャズ・ベーストのリーダー・グループ公演。南青山・ブルーノート東京、ファースト・ショウ。

 出てきてすぐに思ったのは、なんとなく太ったかな。イケ面度数も何か落ちていたような。そんな彼はアップライトと5弦のエレクトリック・ベース(フレット付きとなしのを両方弾く)の両刀、なかには最初アップライトで途中からエレクトリックに持ち替える曲もあった。何かその様にふれて、家には沢山ベースを置いているんだろうなと推測。そんな彼に加えて、トランペット、テナー・サ ックス、ピアノ/電気ピアノ、ドラムが脇を固める。新作に入っていた二人の管奏者をはじめ、主に英国で活動する人たちのよう。編成自体はオーソドックスなカルテットと言うこともできるが、そこはイーストウッドのベース演奏や曲作りの味もあり、ジャズとフュージョンを行き来するような感じが出てくる。ヴォーカリスト(ぼくが見た前回;2006年11月3日は、ジェイミー・カラムの兄ちゃんだった)が今回は同行しないのでポップ度は下がり、ジャズ度は少し上がっていたか。フロントの管奏者もしっかりしていたし。

 5人はみんな白いシャツと黒傾向のデニムという格好に統一。そんなに、おしゃれという感じではない。面白かったのは、本編/アンコールともにイーストウッドが先頭で出てきてステージに登ること。主 役は最後に、というパターンの方が多いと思う。それは、偉そうにしない彼らしいか。それとも、何気に張り切り屋さん?

 1ヶ月近く滞在した彼ら(10月3日、10月11日。その間、評判は広がりまくり。それ,前代未聞というべきものでは)の、日本での最終公演。この日はかなり前から見れたので、じっくりと観察しようとしたのだが。三鷹市公会堂。

 一番年長のリッキーは、さすがちょい疲れ気味に見えた。この日、彼は白いスーツで、シャツと帽子も比較的ベージュっぽいものを身につけている。なんでも、みんな来日時の荷物は最小限らしいが、リッキーだけはいろいろ衣服を持ってきたらしい。なにせよ、やっぱし、皆いい感じで格好をまとめている。ベースのカバリエとロジェはこの日長いスカーフを上手くかぶっていた。そういえば、コンゴの先達であるパパ・ウエンバが来日した際(80年代後期だったっけ?)、お洒落好きなメンバーたち� ��、食事はすべてコンビニ飯などで済ませ、節約したお金でデザイナーズ・ブランドの服を嬉々として買っていた、なんて話を聞いたことがあるが。

 今回、少し冷静気味にライヴに接してまず感じたのは、肉声の噛み合いの素晴らしさ。本当に良く出来ている。いい感じのコール&レスポンスに加え、ラップが切り込んだりとか、最良の構成がなされていると思わせられることしきり。そして、皆それぞれに顔や動きだけでなく、声にキャラがしっかりあり、それを上手く用い(リード・ヴォーカルも曲によって変わる)、噛み合わせている。いい加減というか、烏合の衆なようでいて、曲ごとにヴァリエーションを持つ肉声群の絡みはマジ絶の妙。そのうえで、各々が気分に任せるところもあり、スポンテニアスな要素も決して失� ��ないわないし、何より生き生きしている。これは凄い、と改めて思うとともに、この5人だからこそ、とも、しかと思わせられるか。誰かがいなくなったら……とか、余計なことを心配したくなるほどに。ともあれ、彼らはコンゴの伝統を受け身体にたっぷり蓄積させていて、それをきっちり今の自分たちのヴォーカル/ビート表現として、見事に花開かせている。彼らはまず何より、音楽的な才に恵まれている、それは間違いなく言える。

 そして、彼らはとにもかくにも、胸を張って、大きく手を広げて、一生懸命。ぼくはジュナナやカボセ側のほうにいたのだが、彼らの心からの熱演の様に胸が張り裂けそうになった。ほんと、去年から山ほどツアーをやっているはずなのに、何ら疲弊も見せず、これこそが勝負の日とばかり� ��振る舞うのには頭が下がる。そこには、見る者を和ませる無邪気さや颯爽さもありココロをつかむ。ああ、人間がやっているという感覚の強さに、接する者はヤラれる。

 彼らのショウの演目は全公演、同じもの(全13曲)であったという。だが、この日は2曲のアンコールを終えた後、もう一度出てきて、おそらく世界初お披露目となる新曲をやった。実はリハーサルのときには何度かその曲をやっていたそうだが、まだ完璧ではないという判断で、本編ではやっていなかったらしい。うーぬ、ぼくが先に書いた歌声の重なりの周到さといい、見せ方の確かさといい、楽曲に対する責任の取り方といい、やはりビリリは天然だけのグループではなく、きっちりと才能も見識も計算も努力を持つ、プロフェッショナルな集団であると� �摘できる。ゆえに、ぼくが見たビリリの3回のライヴはどれも外れがなく、質の高さを持っていたのも当然のこと。とともに、キンシャサの地べたで形作られたその表現はとんでもない強さを持つということでもあるだろう。そして、それが成就するまでには、映画「ベンダ・ビリリ!〜もう一つのキンシャサの奇跡」にもあるようにいろんな紆余曲折があったわけで、本当に頭がクラクラしちゃう。

 ともあれ、彼らの態度は正しく、美しすぎる。いやあ、マジいろんなものを出していったナ。ショウのアタマには彼らを扱った映画の予告編も流されたけど、それももう一度みなきゃ。きっと、また新たな発見や感慨とともに、人間と音楽の関係についていろいろ考えさせるはず。この6月30日の項では精一杯あの映画のことを書き� �めたつもりだけど、きっとまた新しい見解や気持ちが頭のなかで渦巻くんだろう。年内にはスタジオ入りも予定されているというが、この傑物グループのセカンド作はどうなるのか。まだまだ、これからだ。

 アギーレは65年生まれの、アルゼンチンのフォークロア伝統を受けつつ、しなやかに我が道を行くミュージシャン。ジャズからブラジル音楽までいろんな表現を見た上で、ピアノやギターを用いつつ、歌曲とインスト曲を自在に行き来するような音楽を聞かせてきている人で、今回が初来日公演となる。

 まずは2曲続けて、ピアノによるインスト。その後は歌いもし、ならすなら弾き語り6.5割、歌無しピアノ・ソロ演奏(ちょい鼻歌的に声を軽く出す場合も)3.5割。また、生ギターを弾きながら歌う場合もある(これは、全体の2割ぐらいかな)。割合は大体の目安ですが。

 ヴォーカル曲の味はさすが。別に歌そのものを取ると決してうまいわけではないんだが。さりげない、でも確かな楽器と歌の相乗のもと、えも言われぬ 悠久的な流れの感覚や心地よさや含みが広がって行き、聞き手を包む様はなかなかに絶品。いろんな気持ちを抱くことができるし、アルゼンチンって、やっぱ凄いかもと思えちゃう。一方、インストのほうはやはりいろんな要素を孕んでいるのだが、少なくても生演奏に関してはニュー・エイジ・ミュージックになっちゃうところがあって(←まあ、ロマンティストなんだろう)、ぼくの耳にはどこか痒いと感じてしまった。というか、歌が入った時の、聞き味が良すぎるっ。そっちのほうには、彼だけの広がり、誘い、色んな濃淡や明暗などがあって、オーガニックでもあるし、わあいいもん聞いていると思えちゃう。かつ、他に替えはないと思える。

 アンコールでは日本人バンドネオン奏者の北村聡とシンガーの松田美緒(2010� �4月19日、他)が出てきて一緒にやる。また、もう一度出てきて、短めにピアノ・ソロも。会場は、表参道・スパイラルホール。あれれ、25周年記念公演と謳われたこの日の公演だけかもしれないが、ステージ高がなく(グランド・ピアノを置いたためかもしれない)、前の方に座らない限り(後ろの高くなっている部分もOKかも)、ステージが良く見えない。ぼくの座った席からは頑張っても、アギーレの演奏している様は当然のこと、眉から上しか見ることができなかった。とても、悲しい。終わった後、知人と流れた先でも、それについての恨みは話に出ざるを得なかった。

 客には来日中のグラストン・ガリッツァ(2010年7月22日、他)の姿も。そういえば、前日にアルゼンチン出身で20年強パリに住んでいるアコーディオン奏者� ��ラウル・バルボーサ(12月に、仏人アコーディオン奏者のダニエル・コランと一緒に来日公演をします)を取材したんだけど、アギーレとは全然世代が違うのにとっても仲良しらしい。

 メンバーの顔ぶれが変わっての公演にして、なかなかに質と密度のあったショウ。渋谷・O-イースト。新ドラマーは腕が立つ。時にはツイン・ドラムになるときもあるし、黒人女性ヴォーカリストも広がりを添える。オヤジの聞き手としては、トーキング・ヘッズと相似する部分を感じないわけにはいかないが、でも創意と心意気とがきっちり交錯していて、相当に好印象。アンコール終了後、彼らは一度場内が明るくなった後にも登場。フロント・マンのニックさんはシャツを脱ぎ、ぜんぜん引き締まっていない上半身を出す。おお、でもすがすがしい。11月9日夕刊に掲載される日本経済新聞の公演評との重なりを避けるため、今はこのぐらいにしておく。
 植民地主義の流れで、フランスはカリブ海に海外県を持っている。そんなことを知ったのは成人をとっくに過ぎてからであり、それは音楽を通してだった。90年前後にワールド・ミュージックの隆盛とともにカリブ海のフランス語圏、マルチニークやグアドループの音楽がビギンやズークという音楽様式とともに紹介され、フランスは遠い地に海外県を持つことをぼくは認知したのだ。マルチニークのマラヴォアやカリ、グアトループのカッサヴなんかはかつて大々的に日本で紹介されたっけ。

 なんてことをステージに接しながら、懐かしく思いだしたりして。グアトループにはグオッカという太鼓が中心となるリズムがあるらしく、それを取り上げたジャズをやっているのが、グアトループ生まれで、バークリー音楽大学を経てNY� �居住しているサックス奏者のジャック・シュワルツ=バルト(2003年9月21日)。彼の両親であるアンドレとシモーヌ・シュワルツ=バルト、ともに文学の方では高名らしいですね。なんでもシモーヌの故郷がグアトループで70年以降に夫妻は居住し、ジャックは生まれたらしい。

 そのジャックはロイ・ハーグローヴ(2009年6月24日、他)とも親しく、彼のソウル・フュージョン路線=R.H.ファクター(2003年9月21日)の成就を助けたりしたことも。ハーグローヴ作やトリッキー(2001年7月27日)作やソウライヴ(2010年5月21日)作などにも参加し、ネオ・ソウル路線にあるリーダー作を複数持つステファニー・マッケイは彼の奥さんというのはともかく(ジャックは今ベッセルトフトと親しいakiko;2010年1月24日他の03年作をプロデュース� ��たこともありますね)、彼のここのところのリーダー作群はグアドループ出身のミュージシャンを入れた出自応用路線をとっているのだ。

 と、ここまでは前置き。そんな彼のトロピカルなんだか都会的なんだかよくわからない(というか、クールにそれらが干渉し合う)表現を愛でて、昨年にジャックをプロデューサーに立ててのリーダー作『Jam Ka』を作ってしまったのが、ギタリストの小沼ようすけ(2004年11月30日)。そして彼、今度はなんとシュワルツ=バルト・バンドを呼んでしまって、同路線のお披露目ライヴをやってしまった。南青山・ブルーノート東京、ファースト・ショウ。この日のみのブルーノート公演と小沼の故郷(秋田)での公演のためだけに、バンドを呼んでしまったそうで、贅沢な。

 小沼とシュワルツ=バルトに加え、打楽器二人、キーボード、ベースという、6人で実演。パーカッション奏者たちはもちろんグアトループ生まれで、パリ在住とか。ベースはカサンドラ・ウィルソン(2010年6月13日,他)やスティーヴ・コールマンら辣腕リーダーの作品で弾いている実力者のレジー・ワシントン(2003年9月21日)。NYを拠点としていた彼だが、今はベ� �ギーに住んでいるらしい。グオッカのリズムを言葉で説明するのは難しいが、二人の奏者はけっこう同じ叩きかたで重なるように叩いていた(ヴォーカルだったら、ユニゾンと説明したくなる)のは印象に残る。そこらへん、丁々発止して、隙間を埋め合っていくような感覚も持つキューバン・ラテン等の打楽器の重なり方とは違うナと僕は感じた。そして、そうした間(ま)を持つ打楽器音ベースのサウンドが内に抱えるのは呪術性というか、永遠性というか。←本が苦手なぼくの言だからあてにはならないが、ガルシア・マルケスが持つ感触を思い出した?

 そこには一聴のどかな感じもあるのだが、一方では濁った今様な空気感もどこかに持ち……。ゆったり誘うのだけど、どこかでは引っかかりを携え……。微妙な濃淡というか 、不可解な幻想感覚のようなものも、ステージからは送り出されていたか。

 小沼はブルース・マンのようにピックを用いず指で弾き、楽譜には絶対表れない、深みやほつれを持つ音色やフレイジングを飄々と送り出す。"ザ・ギタリスト"という風格も、間違いなく出る。ほんと興味深くも、いろんな左手の近い方をしていたような。イケ面ミュージシャンとしても知れれる小沼だが、その左手を見るだけでイっちゃう御夫人もいる? だと、愉快だなあ。というのはともかく、彼の演奏に触れながら、ピック弾きする大半のギタリストはなんと無味乾燥なんだろうと思ってしまった(←少し、誇張)。曲によっては彼、シュワルツ=バルトとともにアウトするソロをとったりも。そういえば、昨年までパリに住んでいたかなり硬派 なジャズ好きの人がフリー系奏者の名とともに、シュワルツ=バルトの名を好きな人としてあげていたな。カリブ系海外県の音楽は本国でも楽勝で入手できるらしい。

2012年4月21日土曜日


【河童のひとり言】
今年のバレンタインデーは、義理チョコが昨年よりも増える傾向だったそうです。昨年の地震の影響で、今年は身近な人に感謝の気持ちを表したいという想いが強まっているからだとか。感謝の気持ちならば、わざわざバレンタインデーじゃなくてもよいと思うのですが、まぁそこは照れ隠しというところでしょうか。バレンタインデーなんかやめたらいいんじゃないか…なぁんて思うこともありますが、それでもやっぱり貰えると嬉しいものですね。

【今週のRyntenNews】
バレンタインデー、というのが定着したのは、いつごろなんでしょうか?少なくとも僕たちが一番もらってよさそうな年齢だった頃は、なかったよう気がします。
もう一度若い頃に戻ったとしても、可能かどうか分かりませんが、生きているうちに一度でいいですから、チョコレートの置き場所がない!っていうのを経験してみたい…そう思うこのごろです。

如何お過ごしでしょうか?

『河童のひとり言』から【バレンタインデー】。
聞くところによると企業が創りだしたトレンドだという話も耳にした事があります。まあ企業が創ろうが何であろうが、定着するのはいい事ではないかと思います。

例えば歴史では新しい「恵方巻き」。どんな業界が言い出しっぺになったのか?聞いてみたいところです。僕が思いつく、その企業が考えてそれが一つのトレンドになって流行った…のに【ハイボール】なんていうのがあります。一度滅亡したのかと思っていたのが、またここに来て突然…です。ひとつのトレンドというやつではないでしょうか?
企業努力が増えるのは歓迎!です。

2012年4月20日金曜日


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2012年4月17日火曜日


世界各地でテロ・ゲリラが行われるが、これは戦力差がありすぎて正規軍同士の戦争が行えないからだ。しかし屈服して屈辱の平和を望まない者たちが、新たな平和を構築することを求めて行う。戦争とは新たな平和を構築する目的で実行されるから、人類から戦争が消えることは無い。

テロ・ゲリラは持久戦が目的であり決戦ではない。だから戦闘状態を継続することが目的であり、交戦国が消耗することを前提としている。テロ・ゲリラの特徴は実行すれば確実に損害が大きいこと。テロ・ゲリラを実行した側は敵よりも5倍の損害になるのが普通だ。資料では最大10倍とも記されているが、テロ・ゲリラ側は正規軍ではないから正確な戦闘記録が残されていないのが現実。

テロ・ゲリラを実行する組織は民間人・元軍人など 多彩な経歴。それが国家の独立・宗教の自由を求めて戦闘を継続する。だから損害を無視して戦うから損耗率は高い。

2012年4月16日月曜日


2012年2月25日、東京にて「原子力発電所を問う民衆法廷」第一回公判が行われた。この民衆法廷とは、いうまでもなく「民衆」(市民社会といったほうがよいだろう)が独自に設置したもので、起源は、バートランド・ラッセルやサルトルを中心としてヴェトナムにおけるアメリカの戦争犯罪を裁いた、1967年の「国際戦争犯罪法廷」にさかのぼる。この民衆法廷は、菅元首相らや東電(会社と役員)、班目春樹原子力安全委員会委員長らの刑事責任を問う形で行われたのだが、それ自体の目的としては、次の言葉に要約できるだろう。

本法廷の基本的性格として何よりも強調しなければならないのは、民衆法廷としては当然のことであるが、福島第一原発事故によって被災した福島県をはじめとする被害者の視点である。日本政府や東京電力が置き去りにして顧みようとしない被害者の声に耳を傾けることを基本に据えることなしに民衆法廷は存立しえない。被害者の視点で物を考えるとはどのような営みを指すのかを、権威や権力の高みからではなく、人類史上初の原発水素爆発の映像に震撼し、恐怖を味わった世界の民衆とともに考え、ここから来るべき思想を紡ぎだしていくことが本法廷に課された任務である。同様に、世界各地のウラン採掘現場で、核兵器製造工場と核実験場で、原発立地で、そして使用済核燃料貯蔵地各地で、人間の尊厳を賭けて闘っている 人々の声に耳を傾け、思いを共有することが、本法廷の出発点でなければならない。(「原子力発電所を問う民衆法廷・決定第1号」)

まさしく、この目的に基づき、福島県から7名もの原発事故被害者が申し立てを行った。一応、氏名だけは紹介しておこう。

村田弘(南相馬市小高区より避難)
増子理香(三春町より避難)
亀屋雪子(双葉町より避難)
武藤類子(三春町居住)
設楽俊司(福島市居住)
大河原多津子(田村市居住)
佐々木慶子

2012年4月14日土曜日


上杉家 武将名鑑

「信長の野望 Online」の「上杉家」に登場する武将達のプロフィールを紹介しています。
  • 身分の表記がある場合は、プレイヤーがその身分になった際、その武将に配属される可能性がある事を示します。
    配属された場合、その武将にちなんだ武将アイテムが貰えます。
  • 全ての武将がプレイヤーが配属される武将とは限りません。
    中には「小荷駄隊」や、敵陣を落とした際にそこに現れる「後詰め」の武将もいます。
  • 武将のセリフは、その大名家に所属しているプレイヤーが話しかけた場合のものです。
    他勢力の場合は違うセリフを話し、また武将によってはセリフが複数ある場合、身分や時間によって話すセリフが異なる場合もあります。
  • 部隊配属アイテム、ドロップアイテムは、攻略本(信長の野望 Online 破天の章 オフィシャルガイド 07.2.28 下) の記載と、「信長の野望Online 寄合所」 で有志の方々により集められたデータを参考にさせて頂きました。

NHKの大河ドラマ「天地人」関連の検索でここに来られた方は、こちら(天地人 歴史案内所)もご覧下さい。



(名前をクリックすることで、武将の紹介に移動します)


上杉家 当主=

上杉家 武将詰所 (小屋敷)=
大石 綱元 (おおいし つなもと) Lv45 侍 敵先陣後詰
「・・・強さとは、己に勝って初めて得られるもの。 武士たるもの、身も、心も鍛えねばならんぞ。」

元は「関東管領(関東地方を統治する役職)」である武蔵地方の名門家「山内上杉家」の家臣だった。
しかし 山内上杉家 は北条家との合戦に破れ、越後の長尾家(後の上杉家)の元に落ち延び、大石綱元 もその際に上杉家の家臣となった。

その後、上杉謙信が病死した後に、謙信の養子「上杉景勝」と「上杉景虎」の間で起こった跡継ぎ争い「御館の乱」で 上杉景勝 を支持。
景勝が跡継ぎ争いに勝利した後は上杉家の重臣となり、後に上杉家が会津に移転させられてから 「会津三奉行」 の一人となった。

鮎川 盛長 (あゆかわ もりなが) Lv35 鍛冶屋
「・・・はん。力押しの何が悪い? 俺は、戦い方にいちいち理屈をごねる奴ぁ、大嫌いだぜ!」

「揚北衆」(あがきたしゅう) と呼ばれる越後の国人(地元の領主・侍)の一人。
越後には他にも、「色部衆」 や 「本荘(本庄)衆」、「新発田家」 など、多くの国人がそれぞれの勢力を持って混在しており、微妙な状態にあった。
鮎川盛長 は、同じ越後の国人である 本荘衆 の 「本庄繁長」 が上杉家と敵対した時、上杉側について本庄繁長と戦うが敗北、城を攻め落とされいる。

その後、上杉謙信 が病死し、上杉景勝 と 上杉景虎 が上杉家の跡継ぎを巡って争った 「御館の乱」 が起こった時、上杉景虎側 に付くが、上杉景勝側 についた 本庄繁長 にまた破れ、再び城を攻め落とされてしまった。

さらにその後、上杉家と越後の国人 「新発田家」 が争った際には、中立の立場を取り争いには参加しなかった。
さすがに懲りたのだろうか・・・? ^^;

山浦 国清 (やまうら くにきよ) Lv37 侍
「勝機は己の手で掴み取るものだ。 気持ちの持ちようで、いかようにでもなるぞ。」

戦国時代の初期に信濃の国を支配していた 「村上義清」 の子。
「村上家」 は 信濃 の有力な豪族(地元権力者)だったが、侵攻してきた 武田家 との戦いに破れ、上杉家に救援を求めた。
そして 村上義清 はそのまま 上杉家 の客将となるのだが、子の 「国清」 は越後の名家で上杉家の親類でもある 「山浦家」 を継いで、「山浦国清」 と名乗った。

上杉謙信 が病死し、「上杉景勝」 と 「上杉景虎」 がその跡継ぎを巡って争った「御館の乱」では景勝側 に付いて、景虎側 の重臣 「上杉景信」 を討ち取っている。
御館の乱が上杉景勝の勝利で終わった後、その功績により景勝から「景」の一字を与えられ、「山浦景国」に改名した。

神保 氏張 (じんぼ うじはる) Lv37 侍
「戦で足が震えるのは、武者震いか、それとも・・・。」

越中(富山県)に勢力を持っていた豪族(地方権力者) 「神保家」 の一族。
しかし彼は 神保家 や 上杉家、織田家 の間で何度も主君を変えている。
最初は 神保家 に所属していたが、織田家 が北陸に侵攻してくると 織田家 に内通。
その後、上杉家 が越中に侵攻してくるとこれに降伏し、一時的に 上杉家 に所属するが、上杉謙信 が病死すると再び 織田家 に付いた。
織田家 では北陸侵攻軍を率いていた 「佐々成政」 の配下となり、越中の各地の戦いで活躍するが、佐々成政 の死後は浪人となる。
後に 徳川家 に仕え幕臣(幕府の家臣)となり、江戸に武家屋敷を構えた。
東京の「神保町」は、この神保家の武家屋敷があった事から名付けられている。

信On では上杉家の家臣として登場しているが・・・ 実際には上杉家の家臣であった期間は短い。
ただ、上杉家の家臣名簿には名を連ねているので、それで上杉家に登場しているのかもしれない。

須田 満親 (すだ みつちか) Lv37 侍
「国を治めるには、民への心配りも必要だ。 町で困っている者を見かけたら、必ず手を貸してやるのだぞ。」

元は信濃の国人(地元の領主)であり、信濃の「一向一揆」のリーダーだったのだが、信濃に武田家が侵攻してきた時に土地を追われ、上杉家に逃れた。
その後は上杉家の武将として 「川中島の戦い」 などで活躍。
さらに越中侵攻軍の総指揮官も務め、上杉家における一向一揆対策の責任者でもあった。

徳川家が信濃に侵攻してくると、その迎撃軍の司令官にも就任している。
後に戦国の名将 「真田昌幸」 の人質として、あの 真田幸村 を預かっている。

山吉 豊守 (やまよし とよもり) Lv50 神主 敵中陣後詰
「・・・心の動揺は、刀や槍のさばきにも現れる。 心を弱くすれば、それは必ず相手にも伝わるもの。 一度敵と刀を交えたならば、決して迷うな。気で倒せ。」

上杉謙信 の側近。
合戦でも多数の兵を率いて戦ったが、主に外交官としての活躍が大きく、奏者 (手紙などの代筆役) として外交文書の発給を行っており、北条家との様々な交渉にあたっている。
また、合戦時の兵士や物資の動員数は、上杉家の家臣の中でも特に多かったと言われている。
上杉謙信が越中に出陣した時は、城代 として本城 「春日山城」 の留守を預かった。

後に 33 才という年で 上杉家 の筆頭家老に就任したのだが・・・ そのわずか2年後、病死している。


上杉家 中庭・通路=

上杉 景虎 (うえすぎ かげとら) Lv55 陰陽師 直江景綱 徒党員、4人目
「・・・氏照兄、俺は・・・。  立ち聞きか、無礼者! 俺は、何も言ってないぞ!
う・・・うるさい、うるさい、うるさいっ! お前には関係ない! 俺に構わないでくれ!」

北条氏康 の七男。 元の名前は「北条氏秀」。
「関東一」 と呼ばれたほどのジャニーズ系だが、薄幸の美少年。
セリフに出てくる 「氏照」 とは、北条氏康の次男、「北条氏照」 の事である。
最初は武田家へ、その後に上杉家へ送られ、外交のための人質に使われたが、上杉謙信 は彼を養子として迎え、自分の幼少期の名前である 「景虎」 の名を与えて可愛がったという。

しかし 上杉謙信 は脳卒中で急死。
そのため謙信の最初の養子 「上杉景勝」 と、謙信に可愛がられていた 「上杉景虎」 の間で上杉家の家督相続争い 「御館の乱」 が勃発し、上杉家は2分されて内乱状態に陥った。
この内乱には 武田家 や 北条家 などの周辺諸国も介入し、戦火はただの内乱に収まらないほどに拡大していく。

当初は 北条家 や 武田家 などの大国をバックに付け、多くの重臣も味方に付いた景虎側 が優勢だったが、北条家の積極的な支援が得られず、武田家も 上杉景勝 寄りの立場に変わり、重臣の多くも離反していったため、景虎 は追い詰められる。
和睦の使者も惨殺され、逃げた先の城主もすでに 景勝側 に離反しており、孤立無援の中、景虎は 26才の若さで自刃した。

なお、信On では彼の顔グラフィックは 「信長の野望 天下創世」 のものが使われておらず、汎用の陰陽師顔になっている・・・  イメージには合うが。

上杉 景勝 (うえすぎ かげかつ) Lv65 侍 上杉謙信 徒党員、二人目
(直江兼続に) 「・・・ははっ! 行くぞ、兼続。 次は水泳で勝負だ!」

上杉謙信 の最初の養子。
上杉謙信 は生涯妻を持たなかったので、当然子供もいない。
景勝は上杉家の親族に嫁いだ、謙信の姉の子だった。

上杉謙信が急死すると、景勝は上杉家の跡継ぎを宣言して、同じ跡継ぎ候補である「上杉景虎」と争った。(御館の乱)
当初は北条家や武田家をバックに付け、多くの重臣も味方した 景虎側 が有利だったが、開戦当初に抑えた多額の資金を使い、さらに婚姻関係を結ぶ事を約束して武田家と和睦。
さらに惜しみなく黄金をばら撒いて多くの重臣や地元勢力を味方に付け、形勢の逆転に成功、北条家の本格的な攻撃が始まる前に 上杉景虎 の城を急襲して一気に追い詰め、上杉景虎 は自害。
上杉景勝は 「御館の乱」 に勝利し、上杉家を相続した。

その後、「本能寺の変」で 織田信長 が死に 豊臣秀吉 がその後を継ぐと、秀吉に臣従して事実上の配下となった。
以後は秀吉の要請に忠実に従い、小田原征伐(北条家への攻撃)、朝鮮出兵などを経て、「豊臣五大老」 の一人となっている。

秀吉の死後も 豊臣家 に臣従し続け、豊臣家 と敵対し始めた 徳川家 に対抗、徳川家の要請や脅迫を突っぱね続け、豊臣側の西軍 と 徳川側の東軍 が戦った「関ヶ原の戦い」が起こると、徳川側を救援しようとしていた東北の 「最上家」 「伊達家」に攻撃を仕掛け、これを釘付けにした。
しかし 「関ヶ原の戦い」 は徳川・東軍の勝利に終わったため、上杉家は縮小されて東北の米沢に移されてしまう。
しかし、その後も上杉家は大名として存続し続け、明治時代まで続く事になる。
武門の意地を通し続けた上杉家に仕える事を家臣は誇りとし、移転によって規模が縮小されても、他家に仕えようとした者はほとんどいなかったと言う。

ちなみに家臣の前で笑ったことは生涯一度しかなかったと言われる超ハードボイルドな人だ。 ・・・が、信On のセリフでは、「ははっ」 とか言っている。 (^^;

なお、信On では彼の顔グラフィックも 「信長の野望 天下創世」 のものとは異なり、汎用の若侍の顔になっている。

ドロップアイテム
紅蓮の扇 = 特殊装備。 全職装備可能。 防御2、耐久24、Lv?。
          攻撃+4、火+10。

直江 兼続 (なおえ かねつぐ) Lv65 陰陽師 上杉謙信 徒党員、三人目
(上杉 景勝に) 「・・・ふふっ。 乗馬の次は、水泳ですか? 次も手加減しませんよ?」

上杉景勝 の側近であり、親友。
上杉謙信 死後の上杉家を、景勝 と共に二人三脚で支えた名軍師。

謙信の死後、「御館の乱」 で 上杉景勝 が上杉家の国主となるが、内乱後の越後を狙って 織田家 が越中や信濃から侵攻しようとしており、上杉家は窮地に立たされた。
しかし 「本能寺の変」 によって 織田信長 は急死、その後に 織田家 の実権を 豊臣秀吉 が握ると、直江兼続 は上杉家の存続のために秀吉に臣従するべきと進言、秀吉との交渉を進め、豊臣家 と 上杉家 を講和させる。
その後は秀吉の要請に従って各地の戦いに参加しつつ、政務なども行い、数々の任務で大きな手腕を発揮して 「知勇兼備の名将」 と称えられた。
後に上杉家は 会津120万石 を与えられるのだが、それとは別に、兼続個人にも 米沢30万石 が与えられたほどに評価されている。

秀吉の死後は、急に力を着け始めた 徳川家康 に従わず、上杉景勝 と共に軍備を進め、逆に徳川家と対立する姿勢を取った。
しかし 「関ヶ原の戦い」 で徳川側が勝利すると、徳川家に謝罪して臣従。
以後は景勝と共に家康に従い、徳川家の重臣の子を養子に迎えてさらに関係を強めるなどして、上杉家の安泰を計った。
晩年は米沢の領地経営に尽力し、その地を飛躍的に発展させたと言う。

日々学問を好み、与えられた領地も配下に与え、本人は質素な生活をしていたという人徳家で、天下のかぶき者 「前田慶次」 とも親交が厚かったという。
また、でっかく 「」 と書かれた、今見ると とても恥ずかしい飾りを兜に付けていたことでも有名だ。

なお、信On では 「信長の野望 天下創世」 の顔グラフィックが使われていない。
別に顔グラフィックがないわけではないのだが・・・ 景勝 や 景虎 も含め、信On ではまだ彼らは子供だからだろうか?
 (最新版 「争覇の章」 で、普通に武将の顔になりました)

直江 信綱 (なおえ のぶつな) Lv55 神官 直江景綱 徒党員、五人目
「・・・主君に仕えれば、この身も、心も、最後の血一滴に至るまで、すべて捧げる気持ちで奉公する。 それが武士の誇りというものだと、私は思います。」

「直江家」 は 上杉謙信 の父の代から上杉家に仕えていた家柄で、彼は上杉家の重臣 「直江景綱」 の子である。
だが、彼の武将としての詳細はよく解っていない。(たぶんあまり活躍してない)

謙信死後の 上杉家 の跡継ぎ争い 「御館の乱」 では 上杉景勝 を支援するが、その後、景勝 を支援した国人衆(地元の領主や侍)に大きな恩賞を与えることに反対した。
そのため、後に国人による殺傷事件に巻き込まれ、殺されてしまった。

彼には子供がいなかったので、直江家はそのまま途絶えてしまいそうになるが、それを惜しんで 上杉景勝 が後を継がせたのが、名臣 「直江兼続」 である。

高梨 政頼 (たかなし まさより) Lv45 侍 敵先陣後詰
「人の一生は短い・・・ だが、限られた命であるからこそ、人は一瞬一瞬を輝かせて生きることができるのだ。 太く、短く生きようぞ! ○○。」

「高梨家」 は信濃の豪族(地方権力者)であり、長尾家(後の上杉家)とは昔から親交があったという。
武田家が信濃に侵攻してくるようになると、同じ信濃の豪族である 「村上義清」 と共に武田家と戦うが破れ、信濃を出て上杉家に逃れた。
その後、「川中島の戦い」 では先陣を務め、活躍している。

ちなみに信濃には、この 「高梨家」 にいた 「黒姫」 という名の美しい娘が、龍神に求婚されるという 「黒姫伝説」 がある。
この 黒姫伝説 は様々な形で現在にも伝わっており、信濃の 「黒姫高原」 の語源にもなっている。

2012年4月13日金曜日


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日本国における著作権についての注意点・・・というか、私(とほほ)自身は著作権について、こう解釈しているというものをまとめてみました。

■ 著作権とは?

著作権とは、著作者が著作物に対して持つ権利です。著作物とは、著作権法の中で「思想又は感情を創作的に表現したものであって、文芸、学術、美術又は音楽の範囲に属するものをいう。」と定義されています。文章、曲、歌詞、絵画、写真などはすべて著作権の対象です。

著作権は、下記などの権利から構成され、違反すると 3年以下の懲役または 300万円以下の罰金、加えて、損害賠償の可能性があります。ただし、著作者自身が訴える必要があります。

分類権利補足
著作者人格権公表権、氏名表示権、同一性保持権譲渡・相続不能
著作者財産権複製権、上演権、演奏権、上映権、公衆送信権、口述権、展示権、頒布権、譲渡権、貸与権、翻訳権、翻案権譲渡・相続可能

「著作権法」の全文は下記のページから「著作権法」を検索して参照してください。

■ 非営利目的であれば少々コピーしてもよいのでは?

あなたが作詞家で、あなたの作った歌詞が歌本などに掲載される度に著作料を得ることができ、それで家族を養っているとします。そこで誰かが非営利目的であなたの歌詞をコピーしてホームページに公開したらどうなるでしょうか。

著作権は、コピーを禁止する法律ではありません。コピーしてもよい/してはダメ/いくら払えばしてもよいを、著作者に決めさせることができる法律です。

■ 著作権を主張するには?

特に何も必要ありません。特許権などは特許庁への申請が必要ですが、著作権は基本的に著作物を創作した時点で自動的に発生します。申請などの特別なことを行う必要はありません。

■ Copyright(C)の意味は?

著作権を英語で Copyright と呼びます。「Copyright(または Copyr. またはマルC)、発行年、著作権者を一体として記述」してあれば、特に形式は規定されていないのですが、慣例としてよく下記のように記述されています。

2012年4月11日水曜日


▼知の共創―研究者プロファイル―

勝方=稲福 恵子 早稲田大学国際教養学術院教授 早稲田大学琉球・沖縄研究所所長 略歴はこちらから

「おきなわ女性学」の確立
―故郷・沖縄と向き合って―

勝方=稲福 恵子
早稲田大学国際教養学術院教授
早稲田大学琉球・沖縄研究所所長

研究のルーツはアメリカ文学

 今でこそ、ジェンダー論や沖縄学が専門と言っていますが、学生時代からのもともとの専門は、アメリカ文学でした。ネイティブアメリカンや黒人の作家によるマイノリティの文学に関心があって、そこから徐々に女性文学の研究へ入っていきました。これがじつに奥の深い世界で、優れた女性作家が次から次へと出てくる――どんどんのめり込んでいきましたね。『アメリカ女性作家小事典』という、300人の女性作家を紹介する事典を編纂したほどです。

 さらに、「これこそ自分のライフワークだ!」と思ったテーマが、1920年代のアメリカの文学シーンを牽引した、女性編集者たちの活躍です。アメリカの1920年代というのは、モダニズムの文学が花開いた時代ですが、その背景には「リトル・マガジン」といわれる文芸雑誌群の存在があり、その多くが辣腕の女性編集者たちによって采配されていたのです。

白人の天使に対抗するイメージとして黒人たちが考えた黒人の天使像「ブラック・エンジェル」

 例えば、『リトル・レビュー』という有名な前衛文芸誌を創刊したのは、マーガレット・アンダーソンという、まだ20代の若き女性です。ジェイムズ・ジョイスの「ユリシーズ」を自分の雑誌で紹介したり、掲載予定だった作品が猥褻文書規制の検閲で掲載禁止を受けたことに反発して、白紙のページを残したまま雑誌を出したりと、当時の文芸シーンでも刺激的な人物の1人でした。

 この時期は、ハーレム・ルネッサンスといわれる黒人解放の時代でもあり、黒人女性の活躍もみられます。経済的に豊かな黒人が徐々に出てきた中に、マダムC.J.ウォーカーという美容師がいました。彼女は、髪の毛をストレートにする薬を発明して、それが黒人女性の間でブームになって商売が大成功します。儲けたお金で、文化交流のサロンを開いて、黒人の作家や芸術家たちのパトロンになったんですね。

2012年4月10日火曜日


2010年08月20日 09時00分55秒

映画というのはほとんどが作り物、フィクションのお話。そのため、作品の中では物語のために人が死ぬことも珍しくありません。しかし、映画の中には観た人に強い影響を与え、現実世界でも死者を出してしまうような作品があります。

あまりに作品が素晴らしくて現実に帰りたくなくなった、映像が強烈で心臓発作を起こしたなど原因は様々ですが、人を感動させられる一方で死へ誘うというのは恐ろしくもあります。

詳細は以下から。

15 Movies that Killed People

アバター(2009)

タイタニックを抜いて全世界興行収入第1位となるほどの大ヒット作品となった「アバター」。2Dと3Dの両方で公開されましたが、2Dで撮影してあとから3Dに変換する"エセ3D"ではなく、3D撮影のためにカメラを開発したという力の入れよう。また、作中に登場する惑星パンドラについてはその位置から大気、原住民ナヴィが使う言語に至るまで学者を集めて細かく設定しており、作り込まれた世界観に魅了された人は少なくありません。

しかし、あまりに現実よりも魅力的な世界であったことから映画鑑賞後にうつ状態になったり、現実に絶望する人が続出し、自殺者が出たという噂まで流れています。台湾では「アバター」を観たあと過度の興奮状態になった後に昏睡に陥り、11日後に亡くなった男性がいるそうで� ��。

なお「アバター」は未公開映像を追加した完全版が上映される予定となっています。

タクシードライバー(1976)

ロバート・デ・ニーロが実際にタクシー運転手を数週間務めて役作りしたというこの映画には、デ・ニーロ演じるタクシー運転手のトラヴィスが社会への憤怒から次期大統領候補暗殺計画を立て未遂に終わるというシーンがあります。

普通の人は映画を観ても「あくまでフィクションだから」と割り切ることができるのですが、ジョン・ヒンクリーはそうではない人間でした。ヒンクリーは「タクシードライバー」に登場するアイリス役のジョディ・フォスター(当時12)に入れ込み、スターであるフォスターと同等の立場になるために大統領暗殺を計画しました。当時の大統領ジミー・カーターを狙ったヒンクリーは重火器不法所持によって逮捕されます。

釈放後も計画は続き、ヒンクリーはカーターを破って� �統領となったレーガンを狙うようになります。1981年3月30日、計画は実行に移されましたが(レーガン大統領暗殺未遂事件)、暗殺は未遂に終わりました。ヒンクリーは精神異常を理由に無罪となりました。

クイーン・オブ・ザ・ヴァンパイア(2002)

2012年4月8日日曜日


 HOME>クイズ王への道>第13回アメリカ横断ウルトラクイズpart2

 成田→グアム(第3チェックポイント)
 機内400問ペーパークイズ。実際にやったら飛行機酔いしそう・・・。
  
 〔問題1〕
 Q1.さて第一問!現役時代に背番号「1」をつけていた監督は?
 �
 �
 �
 �
  @メロディ電報 Aテレホンカード電報 B刺しゅう電報
 Q388.今年、公開された映画は?
  @117 A226 B515
 Q389.アイヌ民族が行う熊祭りは?
  @リ・オ・ジャネ Aサ・オ・テシホ Bイ・オ・マンテ
 Q390.

2012年4月7日土曜日


東京オリンピックの時のデットマール・クラマーさんから始まり(彼を呼んでくる背景を考えればそれ以前からですが)、Jリーグ創設当時の川淵チェアマンの理想のサッカー育成環境はドイツのスポーツシューレでした。Jのクラブでもブンデスリーガのクラブの有り様を手本にしているところもあります。日本人初めてのプロ選手が誕生したのもドイツでした。

そんな国のリーグですから、現在日本人が多数参加していても不思議はないようです。ですが、いつもうらやましく思うのは観客動員とその熱さです。熱狂的ですが、プレミアともリーガとも違うものがあります。セリエとは少々似た感じがありますが、観客動員が違います。それは何だろうと思います。

そんな時に一冊の本のこ とを思い出しました。ギュンター・グラスの『私の一世紀』(早稲田大学出版部2001年、06年に新装版が出ていて現在も購買可能)です。グラスは映画にもなった『ブリキの太鼓』の作者で、1999年のノーベル文学賞を受賞した現代ドイツ文学を代表する人。生まれは、現在はポーランドであるグダニスク。当時はダンツィヒ自由市と呼ばれ、ドイツでもポーランドでもなかった町。そこでドイツ人の父親、スラブ系の少数民族の母親の家庭に育ったのです。17歳の時に、ナチスドイツの武装親衛隊に入隊したことを06年に告白し、大きな話題を呼びました。

2012年4月6日金曜日


ファイト・オブ・ザ・ナイト

デイヴ・ハーマン vs.

2012年4月4日水曜日


12月19日(火)  昨夜は、リサイタルホールでの「名犬ラッシー」の試写会へ行って来ました。懐かしいと思われる方も多いと思います。
原作は、英国のエリック・ナイトで、1938年サタデー・イブニング・ポスト紙に掲載され、1940年単行本が出版された、ロングセラー小説です。以降11本の劇場映画、数々のテレビドラマ、アニメーション等が作られています。

最初に映画化になったのは、1943年でエリザベス・テイラーが10才の子役で出演し、大ヒットになりました。ラッシーという名前は、お嬢さん・少女という意味で雌犬ですが、初代ラッシーを演じた「バル」は雄です。以降バルの子孫がラッシーを演ずることが多く、今回の映画でも9代目ラッシー子孫の「ヘイヘイ」がラッシーの見合い相手として出演しています。(第一作目の映画では、ラッシー役に7匹、今回の映画ではラッシー役に3匹が出演しています)。

「名犬ラッシー」はアメリカでテレビ・シリーズとして、アメリカを舞台に設定し、オリジナルなエピソードを加えて大ブレイクし、日本のテレビでも放映されました。今回の映画は、原作を忠実に再現したという点では、1943年の映画以来、2作目となります。
見所は、沢山出演する動物の演技と、イギリスの大自然の風景を堪能できることです。また、カメラワークも犬の視点から撮ったものが多く、これも映画を引き立てています。

2012年4月2日月曜日


■RFKスタジアムでMLB新球団「ナショナルズ」の試合を観る  今夜はまたメジャーリーグの試合を見に行く予定になっている。

 ワシントンDCにMLBの球団などあるのか? と疑問に思うかもしれない。
 昨年(2005年)のシーズンからカナダのモントリオール・エクスポズがDCに移転してきて、ワシントン・ナショナルズ(Washington Nationals)というチームに生まれ変わっているのである。今、ナショナルリーグ(ナ・リーグ)の東地区に所属している。


 国立歴史博物館を出て、右にワシントン記念塔、左に議会議事堂を眺めながら、広大な緑地公園ナショナル・モール(National Mall)を横切る。その先に地下鉄スミソニアン(Smithsonian)駅があった。

 ここから「オレンジ/ブルーライン」に乗って6駅10分ほどでスタジアム・アーモリ(Stadium-Armory)に着いた。駅から歩いて5分ほどの場所にナショナルズの本拠地、ロバート・F・ケネディ・メモリアル・スタジアム(RFKスタジアム=Robert F. Kennedy Memorial Stadium)がある。